第5章
海外で治療を受ける日取りは、もう決まっている。
彼女に残された時間は、わずかだった。
出ていく前に、どうしても取り戻さなければならないものがある。
母が生前、いくつもの夜を削って描き上げた宝飾デザインの手稿。あんな不快な母娘の手に置いておけるものではない。
30分後、車は松本家の別荘前に停まった。
松本彩世は扉を押して中へ入る。
リビングは煌々と明るく、松本智徳が紫檀のソファに腰かけて茶を飲んでいた。継母の渡辺春帆はその隣で、何事かをひそひそと吹き込みながら、計算高い笑みを口元に浮かべている。
物音に気づき、二人が顔を上げた。
ひとりで入ってきた松本彩世を見た瞬間、松本智徳の笑みがすっと消え、眉間に皺が寄る。
「こんな夜更けに何しに来た。寒季は?」
松本彩世の背後を確かめ、新谷寒季がいないと分かると、声の温度はたちまち下がった。
「母の遺品と手稿を取りに来たの」
松本彩世は無駄口を叩かず、ローテーブルの前まで歩み寄ると、冷え切った目で松本智徳を見据えた。
「松本凛が今日、私のところに来た。物があなたの手にあるなら、出して」
松本智徳は茶碗を乱暴に卓上へ置いた。
どん、と鈍い音が鳴る。
「父親に向かって、その口の利き方か」
年長者ぶった顔で睨みつける。
「お前の妹は善意で見舞いに行ってやったんだ。それをお前は、自分で転んであいつに罪を着せた挙げ句、寒季に追い出させた! 松本彩世、お前は本当に増長したな!」
松本彩世は唇の端をわずかに吊り上げた。瞳の奥にあるのは、冷えた嘲りだけ。
罪を着せた?
運が悪ければ、あの一転びで腹の子は助からなかった。
「話を逸らさないで」
胃の底がぐらりと波立つ。込み上げる吐き気を押し殺しながら、松本彩世は低く言った。
「物を返して。すぐ帰る。これから先、ここに足を踏み入れることもない」
「彩世、そんな言い方はないでしょう?」
渡辺春帆が絹のショールを整えながら、ねっとりと口を挟んだ。
立ち上がると、松本彩世のまわりをゆっくり一周し、青白い顔色を品定めするように眺め回す。
「ずいぶん顔色が悪いのね。新谷家でも、うまくいってないんじゃない? まあ、無理もないわ。結婚して3年も経つのに子どもひとりできないんですもの。今日、新谷のおじいさまが随分お怒りだったって聞いたわよ。私なら、とてもじゃないけど新谷家に居座る顔なんてないけど?」
松本彩世は冷たく一瞥をくれた。
「私が居座れるかどうかを、あんたみたいな愛人風情にとやかく言われる筋合いはないわ」
「あなた……!」
痛いところを刺され、渡辺春帆の顔がひきつる。だが次の瞬間には、また勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「愛人で結構じゃない。今、松本家の女主人はこの私よ。しかも娘は出来がいいの。凛は新谷家の子を身ごもってる。寒季はそれはもう宝物みたいに大事にしてるわ。で、あなたは? 新谷夫人の席にしがみついてるだけで、他に何があるの?」
彼女は松本智徳の腕にまとわりつき、焚きつけるように言う。
「智徳、見てちょうだい、この態度。凛はいま身重なのよ。つらい思いなんてさせられないわ。きちんと片づけないと」
松本智徳は渡辺春帆の手を軽く叩き、咳払いをひとつした。松本彩世へ向ける視線には、商売人らしい打算と冷酷さがにじんでいる。
「彩世、話がここまで出た以上、はっきり言っておく」
ソファの背にもたれ、恩着せがましい口調で続けた。
「お前の母親の遺品は渡してもいい。だがその前に、お前にも少しは物分かりよくなってもらわないとな」
松本彩世は、目の前の“父親”を冷ややかに見つめた。胸の奥に残っていた最後のぬくもりまで、完全に冷え切っていく。
「物分かりよく? どうしろっていうの」
「自分から寒季と離婚しろ。そして新谷夫人の座を凛に譲れ」
松本智徳は、ごく当たり前の条件でも出すように言った。
「お前は子どもを産めない。新谷家がいつまでもお前を置いておくわけがない。だが凛はもう新谷家の血を宿している。これは覆らん事実だ。お前が自分から身を引けば、みんなの顔も立つ」
そこで一度言葉を切り、さらに続ける。
「もちろん離婚の際には、お前のほうが寒季に申し訳ないという形にしろ。それから、新谷家から松本家への投資は絶対に引き揚げさせるな。うちの案件もそのまま継続させろ。それを約束するなら、お前の母親の手稿は今すぐ返してやる」
目の前の、どこまでも身勝手な男女を見ているうちに、松本彩世はふと笑いたくなった。
あまりにも、ばかばかしい。
これが自分の実の父親。
松本家の利益のためなら、娘ひとり骨までしゃぶり尽くすことに何のためらいもない。母の遺品でさえ、平気で脅しの札にする。
「松本智徳……頭に水でも詰まってるの?」
松本彩世は、とうとう小さく笑い声を漏らした。けれど、その目は少しも笑っていない。
背筋をまっすぐ伸ばし、刃のような視線で二人を切る。
「母の遺品を使って、愛人の娘に席を譲れって? 本当に、恥って言葉を知らないのね」
「松本彩世、口の利き方に気をつけろ!」
松本智徳が勢いよく立ち上がり、怒鳴りつける。
「何か間違ってる?」
松本彩世は一歩も引かず、真正面からその目を受け止めた。
「渡辺春帆は、母が身重のときにあなたのベッドに潜り込んだ。母を追い詰めて、飛び降りるところまで追いやった。そして今度は、その娘が私の夫に色目を使ってる。母親が愛人なら、娘も愛人。そういうところだけは、見事に受け継いだみたいね」
その一言が、渡辺春帆の逆鱗を正確に踏み抜いた。
「このクズ……! よくも私の娘を!」
渡辺春帆は完全に頭に血が上り、甲高い悲鳴を上げる。顔を歪めたまま突進し、手を振り上げて松本彩世の頬を張ろうとした。
松本彩世の目がすっと細くなる。かわそうと身構えた、その瞬間。
渡辺春帆の腕は、松本智徳に乱暴に引き止められた。
松本彩世を庇ったわけではない。騒ぎが大きくなれば面倒だと分かっているだけだ。
「お前は、あの短命だった母親そっくりで目障りなんだよ!」
渡辺春帆はなおももがきながら、松本彩世を指差して毒づいた。
吐き出される悪意は、蛇の舌みたいにぬらりと粘る。
「自分だけは清いとでも思ってるの? 新谷寒季が本気であんたを愛してるなんて、夢見るのもいい加減にしなさい!」
