第1章 妊娠
「……義兄さんの子、できちゃった。お姉ちゃん、怒らないよね?」
――子ども。
その言葉が、耳の奥でぶんぶんと鳴り続ける。
電話の向こうから届く甘ったるい声を聞いた瞬間、茅野芽衣の心臓は、見えない手でぎゅっと握り潰されたみたいだった。
産婦人科の廊下。
天井灯の白さが刺さるほど眩しくて、その光が、芽衣の手の中の検査票へ冷たく落ちる。
「妊娠確認 6週」
――相馬瑛太との子だ。
「お姉ちゃん、聞いてる?」
養妹の茅野美月は、無邪気な口調のまま毒を塗りつけて笑う。
「義兄さんね、あたしのこと心配して、仕事ぜんぶ断って検診ついてきてくれたの」
その先は、もう耳に入らなかった。
鋭い耳鳴りと、胸の奥を薄皮一枚ずつ剥がされるような鈍痛だけが残る。
視界がじわりと暗くなる。
消毒液の匂いが濃すぎて、胃の底から吐き気がせり上がった。
――一か月前。結婚記念日。
瑛太の帰りは遅かった。
そして、あの懐かしい白桃の香りをまとっていた。
問いただす間もなく、情熱的に唇を塞がれた。
理性が溶ける中、芽衣は彼の首に腕を回し、耳元で囁いた。
「瑛太……子ども、欲しいな」
彼の目が一瞬だけ揺れて、額にそっと口づけが落ちる。
「芽衣。俺は、この先ずっとお前がいればそれでいい。出産は身体に負担が大きいだろ。前、俺の起業に付き合って無理した。もう苦労させたくない。二人で、このまま一生――だめか?」
胸いっぱいの感動。
むしろ、負担をかけた自分が申し訳なくなるほどだった。
両親も、友人も、取引先も、社員まで口を揃えて言った。
相馬瑛太は芽衣を、自分の命より愛している――と。
芽衣も、疑わなかった。
結婚三年。
彼は芽衣の好みをすべて覚え、城南の老舗の今川焼きを「焼きたてがいちばん」と言った芽衣の一言のために、半分街を横断し、二時間並んで買ってくる。
暗がりが苦手な芽衣のために、彼は自ら設計し、部屋の隅々まで柔らかな灯りが届くようにした。
生理痛で芽衣が苦しめば、千万単位の会議を即座に止め、家に戻って黒糖生姜湯を煮て、手ずから飲ませる。
世界でいちばん幸せな姫にしておくのが自分の役目だと、甘やかすことを誇っていた。
――その「揺るぎない愛」は、記念日の翌日、粉々に砕けた。
瑛太の好物、ティラミスを手作りして、会社へサプライズに行った。
ところがオフィスの外で、芽衣は一生忘れられない光景を見た。
衣服の乱れた美月が、瑛太の上に跨っていた。
腕を首に絡め、深いキスを交わしている。
美月が、息を弾ませて言った。
「義兄さん。もしお姉ちゃんが知ったらさ――妹がとっくに義兄さんのベッドに上がってたって知ったら、どんな顔するかな?」
瑛太は冷たい顔で美月を乱暴に突き放し、少し乱れたシャツの襟を整えながら、断固たる声で言った。
「美月、最後に言う。芽衣の前で余計なことを言うな。もし一言でも漏れたら――どうなるか、分かってるだろ」
美月の顔が一瞬、歪んだ憎悪に染まる。
けれどすぐ、甘く無垢な仮面へ戻り、彼の腕にすり寄って甘えた。
「分かったぁ。お姉ちゃんと取り合ったりしない。あなたのそばにいられるなら、それで十分だもん」
ティラミスの箱を持つ芽衣の手が震えた。
下唇を歯で強く噛む。呼吸のたび、血の味がした。
――自分が、笑いものに思えた。
七年。
何もないところから共に這い上がり、会社を一無から時価総額億単位にまで育てた。
その会社の中で、彼は――芽衣がいちばん嫌っている養妹と関係を持っていた。
芽衣は飛び込んで問い詰めなかった。涙も一滴落とさなかった。
ただ、その丁寧に作ったティラミスをゴミ箱に投げ捨て、静かに会社を出た。
翌日も、いつも通り出勤した。
瑛太にも、普段と変わらない笑顔を向けた。
ただ、瑛太が触れようとするたび「疲れてるの」とやわらかく押し返した。
瑛太は、芽衣が仕事に没頭しているだけだと思い、困ったように、それでも甘やかすように髪を撫でるだけで深追いはしなかった。
その後、芽衣は裏で調べた。
手段も使った。瑛太と美月の関係が、少なくとも半年以上続いていたことを突き止めた。
ホテルの利用記録。
艶めいた言葉が並ぶチャットのスクリーンショット。
心は少しずつ死に、同時に少しずつ鉄のように固くなっていった。
一週間後。
ぼんやりしたまま横断歩道を渡り、黄信号を突っ込んできた車にかすられた。大怪我ではない。だが驚きと、脛の骨折で入院になった。
瑛太は青ざめて駆けつけ、三日三晩、片時も離れず付き添った。
三日間眠らず、頬はこけ、目は血走っている。医師も看護師も羨ましがった。
「相馬さん、ご主人、本当に手のひらで大事にされてますね」
――けれど三日目の午後、母から電話が来た。
美月が家の階段から落ちて足を捻った、と。
母は心底かわいそうだと言わんばかりに責めてくる。
「芽衣、妹が怪我したのに、どうして顔も出さないの。お姉ちゃんなのよ?」
芽衣は、ただ滑稽だと思った。
自分こそ実の娘なのに、入院していた数日、一度も見舞いに来なかったくせに。美月の捻挫程度で、こちらに「姉らしさ」を求める。
電話を切って十分もしないうちに、瑛太の携帯が鳴った。
スマホを握った彼は眉を寄せ、芽衣に申し訳なさそうな目を向ける。
「芽衣、会社で緊急のトラブルが出た。すぐ戻らないといけない。付き添いは手配する。すぐ戻るから……いいか?」
その目の奥をよぎった「やましさ」を、芽衣は見逃さなかった。
――美月の下手な芝居。そして瑛太は、美月のもとへ行く。
芽衣は、彼の背中を見送っても表情を変えなかった。
しばらくしてスマホを取り、海外へ繋がる番号を押す。
「先輩。私、茅野芽衣です」
「お願いがあるんです。先輩のご実家、外洋輸送もやってましたよね。三か月後、海難事故を……『演出』してほしい」
相手は理由を問わなかった。
ただ、静かに確認する。
「覚悟はある? 一度やったら、茅野芽衣という人間は、この世から完全に消える」
芽衣は、これまでにないほどはっきりと言った。
「決めました」
相馬瑛太の世界から消える。
この三か月で、自分のものを取り戻す。
そして、代償を払うべき人間を――身の破滅ごと叩き落とす。
