第5章 再会
口紅の色味は、茅野芽衣が絶対に選ばない類いだった。
――つまり、相馬瑛太に言い逃れの余地はない。
芽衣は手を離し、相馬瑛太をまっすぐ見つめた。表情には、ちょうどいい加減の薄い疑問だけを乗せて。
けれど胸の内は、氷みたいに冷え切っている。残っているのは、かすかな好奇心だけ。
相馬瑛太は、どうやって嘘を丸めるのか。
茅野美月は、どうしてこんなにも「挑発しても平気」だと確信しているのか。
自分がここ数年、あまりにも無害に振る舞いすぎた?
それとも……あの子が、美月に「度胸」を与えている?
芽衣は、ふっと音もなく嗤った。
そして静かに、相馬瑛太の答えを待つ。
相馬瑛太は一瞬ぎょっとした顔をした。鏡の反射で、襟元にくっきり残った唇の跡を見つけると、表情がすっと沈み、目の奥に陰が落ちる。
美月への我慢は、とっくに限界だった。心の中で舌打ちする。――くそ。
だが次の瞬間には、何事もなかったように整え直し、同じように首を傾げてみせた。
「……何のことだ? 芽衣」
芽衣はくすりと笑った。雨上がりみたいに明るい笑みが、唇の端に咲く。
その綺麗さに、相馬瑛太は思わず息を止める。結婚して何年経っても、芽衣にはときどき心を奪われる。
芽衣は相馬瑛太の襟を指先で軽く整え、あえて話を合わせた。
「なんでもない。どこかで擦れたんじゃない? びっくりしちゃった。そんなに怖い顔しなくても」
相馬瑛太は、胸の奥でそっと息を吐いた。
芽衣の手を握り、罪悪感を滲ませるように言う。
「今日は本当なら、芽衣を喜ばせる日だったのに。……病院のせいで台無しになった。欲しいものがあるなら埋め合わせする」
「あなたがいれば十分」
芽衣は彼の胸を軽く押し、笑って言った。
「早く行って。全身、酒くさい」
相馬瑛太は低く笑い、芽衣が寝室へ戻る背中を見送った。
酒の匂いを移さないよう、彼は別のバスルームへ向かう。
――面倒でもいい。芽衣が不快になることだけが怖い。
それが、長いこと胸の奥で大事にしてきた愛人だから。
鏡の前で、唇の跡がはっきり見えた。
相馬瑛太の表情が暗くなる。出所も意図も、すぐ分かった。
茅野美月ごときが。
芽衣の前で、縄張りを主張するつもりか?
芽衣は、あんな恥知らずに触れられていい女じゃない。
相馬瑛太は寝室の方を一瞥し、スマホを取り出して電話をかけた。
繋がった瞬間、声を低く落として言い放つ。
「言ったはずだ。芽衣の前で余計なことをするな。次はない。俺の視界から消えると思え」
向こうで、美月がぱちぱちと目を瞬かせる気配。
無垢を装った声が返ってくる。
「お義兄さん、なに言ってるの?」
そして、弱さを武器にする。唇を噛み、泣きそうな声で。
「お医者さんが言ったの。妊娠中は刺激がだめだって。もしお義兄さんまで味方してくれないなら……この秘密、ひとりで抱えきれなくて、お姉ちゃんに言っちゃうかも。どうしよう」
相馬瑛太の呼吸が詰まった。拳を握り込み、指の関節が白くなる。
苛立ちの行き場がない。
「……脅してるのか?」
「そんなふうに思うの? わたし、全部この子のためだよ……」
涙声が絡む。さらに弱々しく、怯えたふりを重ねた。
「今日はお姉ちゃん、すごく怖かった。わたし、小さいころから臆病で……びっくりすると、すぐ失敗しちゃうの」
相馬瑛太はゆっくり目を閉じ、胸の内の荒れ狂いを押し殺した。
――まだ、腹の子が必要だ。
生まれたら、真っ先に美月を処理する。芽衣との間に入り込む厄介事は、根から断つ。
そして子どもは「贈り物」として芽衣に渡す。養子だと言えばいい。芽衣なら、きっといい母親になれる。
その未来だけが、彼の中で都合よく輝いていた。
相馬瑛太は責めるのをやめ、電話を切る前に冷たく言い捨てた。
「医者を手配する。安静にしてろ。子どもに何かあったら許さない」
美月が甘い声で答える。
「うん……ありがとう、お義兄さん」
壁一枚隔てた向こうで、芽衣は掌に爪を食い込ませていた。痛みでしか、胸の底から湧き上がる悲しみと失望を押さえ込めない。
――やっぱり。
相馬瑛太は、美月をただの遊びで済ませるつもりじゃない。
どれだけ腹立たしくても、子どものためなら甘やかす。
相馬瑛太は、子どもが好きだったんだ。
……いや、美月の子が、なのか。
芽衣はゆっくりと自分の下腹に触れた。まだ膨らみもしないそこが、ひどく遠く感じる。
心は千切れているのに、痛みだけが新しく冷たく刺さった。
――でも、一度痛めつけられたから学べた。
芽衣は何度も息を吸い、冷たい空気で感情を均していく。
やがて相馬瑛太が部屋着に着替え、ベッドへ入ってきた。
背後から抱きしめられ、熱い手のひらが細い腰を撫でる。つるりとした肌を、惜しむみたいに。
芽衣は何事もないふりで仰向けになり、相馬瑛太の手を取って、そっと下ろした。
彼がさらに踏み込もうとした瞬間、眠たげな声で囁く。
「口紅、見た?」
相馬瑛太の動きが止まった。
抱きしめるだけに留め、平静を装う。
「病院が混んでただろ。いつの間にか擦れたんじゃないか。看護師に手を貸したときかもしれない」
その稚拙さに、芽衣は笑いそうになるのをこらえた。
目を閉じて、静かに言う。
「眠い。寝よう」
相馬瑛太は諦め、芽衣の手を握ったまま眠りに落ちた。
翌朝。
相馬瑛太は朝食を済ませると、先に家を出た。「会社で用事がある」と。
芽衣は何も言わない。彼が話すとき、芽衣の目をまともに見られない、その視線の逃げ方だけで行き先は分かる。
芽衣も遅れて家を出て、車で病院へ向かった。再検査のために。
待ち時間。医師は検査結果を取りに行き、芽衣は病室前の廊下をぶらつく。
無意識に腹を撫でながら。
そのとき、聞き覚えのある声が耳に刺さった。
芽衣は足を止める。
――まさか、こんな場所で。
病室の中では、美月が相馬瑛太の腕に絡みつき、甘く尋ねていた。
「瑛太。うちの子、男の子かな、女の子かな?」
相馬瑛太は壁の赤ん坊のポスターに視線をやり、知らず表情が緩む。
芽衣がいつか子を抱く姿が脳裏をよぎったのか、声まで柔らかい。
「男でも女でもいい。守られるべき小さな命だ」
美月は幸せそうに身を寄せ、腕を小さく揺らした。
芽衣は冷たい壁にもたれ、喉の奥で笑い捨てた。呼吸が震える。
何度見ても慣れない。毎回、心臓に刃を突き立てられるみたいに痛い。
掌が震え、顔を覆って吐き気を押し込めようとした、その瞬間。
そっと、身体を支える温かな手があった。
芽衣は反射的に顔を上げる。
視線が、相手とぶつかった。
