第6章 茅野芽衣は妊娠した?
茅野芽衣の目の前に、薄い涙の膜がかかった。視界がにじみ、輪郭がぼやける。
かすむ視線の向こうで、やさしく見慣れた人影が、微笑みながらこちらを見ていた。
芽衣はその場に立ち尽くした。手を引っ込めることすら忘れ、眉間をわずかに寄せて、驚いたように相手を見上げる。
――脳より先に、身体が「誰か」を思い出してしまう。
さらさらと流れ込む温もり。久しく忘れていた安堵が胸に満ちて、懐かしさのせいで逆に心臓がひゅっと縮む。
まるで――
記憶のいちばん柔らかな場所から、あの頃の救いが立ち上がってきて。いちばん苦しい瞬間の自分を、もう一度引き上げてくれるみたいに。
茅野芽衣は呆然とした。
相馬悠真がくすりと笑い、引っ込めた手を芽衣の目の前でひらひら振る。子どもをあやすような口調で言った。
「どうした。こんなに久しぶりなのに、俺の顔も分かんない? ……まさか、びっくりした?」
芽衣は反射的に目尻の涙をぬぐい、胸の奥の酸っぱさを飲み込んだ。
相馬瑛太に裏切られた痛みが、別の痛みに姿を変える。久しぶりの再会が連れてきた、ぬるい痛み。湯気のように静かに、心の底の冷えを少しずつ溶かしていく。
胸が微かに張るのを隠し、芽衣は平静を装って返した。
「何年ぶりだと思ってるの。相変わらず性格悪いね。院長先生に知られたら、また『悠真くん、芽衣ちゃんをいじめないの』って怒られるよ」
「はぁ……」
悠真は大げさに胸を押さえ、心底傷ついたみたいな顔を作る。
「大事件だ。あの頃の白ウサギが、口答えするようになった。俺のこと嫌いって言われたの、たぶん人生初なんだけど?」
芽衣は思わず、ぷっと吹き出した。
――世界中の誰が見ても、この人を「嫌なやつ」だなんて思わないくせに。
視線が絡み、二人の間にようやく、久しぶりの驚きと安堵が滲んだ。
笑いが引いていくと、からかいも静かに仕舞われる。互いの顔を、どこか複雑な目で見つめ直した。
悠真は白衣姿だった。
昔と変わらない清澄さ。整った眉目は、いつも穏やかな薄笑いをまとっているせいで、余計に品よく見える。あの頃の熱い「お兄さん」には、年月の分だけ柔らかな成熟が足されていた。長い睫毛の影の奥で、やさしく芽衣を見つめて笑う――まるで当時のまま。
高嶺の雪みたいに澄んでいて、見ただけで妙に距離が縮まる男。
そして、幼い頃の芽衣にとっては。
悠真は一度、本当に――沈まない太陽みたいな存在だった。孤児院に数えるほどしかない笑いと、少しの期待を連れてくる光。
あの頃、芽衣はまだ茅野家に引き取られていなかった。
孤児院の暮らしは、きつかった。職員たちがどれだけ尽くしてくれても、子どもたちの生活はぎりぎりで、日々を回すだけで精一杯。
孤児院の中ではみんな似たような服だったから差は目立たない。けれど学校に行けば、すぐ分かる。からかわれて、突かれて、笑いものにされる。
芽衣たち年長の子は、空いた時間に小さなバイトをして孤児院に入れたり、年下をかばったりして、何とか支え合っていた。
その状況が少しずつ変わったのは、悠真が来るようになってからだ。
当時の悠真は医大生で、実習の合間に義診に来てくれていた。自腹で子どもたちに服を買い、黙って置いていく。正義感だとか善意だとか、そんな言葉じゃ足りないくらい、まっすぐに。
最初、芽衣は警戒した。
孤児として人の冷たさも、やさしさのふりも見てきた。異物を見る目に慣れすぎて、誰かの親切をそのまま受け取れなくなっていた。見返りを求めない真心なんて、この世にあるはずがない。そう思っていた。
でも、長く接するうちに分かった。
相馬悠真は、芽衣が人生で初めて出会った――「見返りを求めない真心」だった。
週末、子どもたちがいちばん待っていたのは、悠真お兄さんが来る日だ。あの人は孤児院の重たい空気を一瞬だけ割る光で、温かいのに眩しすぎない。それが何より救いだった。
けれど、ある時期から悠真は海外研修に出て、そのまま音信不通になった。
まさか、こんなみっともない瞬間に再会するなんて。
芽衣は胸の奥の感慨を押し込み、わざと話題を変えた。
「今、この病院で働いてるの?」
悠真は芽衣の目元に残る淡い水気と、赤く滲んだ睫毛を一瞬だけ見て、深追いしなかった。軽く笑い、歩調を合わせる。
「そう。帰ってきたばかりで、まだ落ち着いてないけどな」
一拍置いて、誤解を避けるみたいに付け足す。
「産婦人科じゃないから」
芽衣は唇の端をわずかに上げる。
「じゃあ、通りがかっただけ?」
悠真は鼻先を触り、気まずそうに咳払いした。結局、隠しきれずに白状する。
「同僚が受付で名前を見たって言ってさ。年齢も合ってた。……運試しで探したんだよ。まさか本当にお前だとはな」
芽衣の胸が小さく揺れた。
もし彼が、探しに来なければ。こんな大きな病院で、偶然なんて起きない。
そして自分は――遠くないうちに、この街から消える予定だ。
すれ違いひとつで、二度と会えない。今回が最後になるかもしれない。そんな意味を、悠真が知るはずもない。
「こっち。ちょっと来い」
悠真は自然に前を歩き、芽衣を自分の科のほうへ案内する。薄笑いを浮かべたまま言った。
「病院で昔話って、俺らしいよな。初めての再会がこれって」
芽衣は慣れた調子で、小さく笑う。
「昔だって、会う場所はだいたい保健室だったし。逆に他の場所だと落ち着かないかも」
悠真は呆れたように首を振り、苦笑した。
それから、少し申し訳なさそうに言う。
「あのとき、黙っていなくなったのは俺が悪い。院長先生とも話したんだ。子どもたちのためだって……」
芽衣は窓の外へ目を向け、静かに言った。
「さよならを言わなければ、傷つかないなんてないよ。別れは別れ。……結局、逃げただけ」
悠真が息を吐く。
「ずっと後悔してる」
空気がわずかに重くなったのを感じて、芽衣は慌てて話題を切り替えた。
「もういい。子どもたちはね、あなたが海外で元気にしてるならそれでいいって思ってた。今、帰ってきたって知ったら、みんな喜ぶよ」
悠真は照れたように首を振る。
「一人前ってほどじゃないよ」
そして、ふと思い出したように、真剣な目になる。
「それより、お前――どうして病院に? しかも……」
言い淀みながら、芽衣の腹に視線を落とした。踏み込んでいいのか迷っているのが分かる。
芽衣は隠す気をなくしていた。これから何度も検診はある。いずれ知られる。
だから淡々と告げた。
「妊娠したの」
悠真の眉が強く寄る。
「……ひとりで来たのか? 検診に」
その声には、すでに不満が混じっていた。芽衣の「夫」がどこの誰であろうと、まともじゃないと言わんばかりに。
芽衣は口を開きかけて、言葉が詰まる。
ちょうどそのとき、産婦人科の医師が呼んだ。
「茅野芽衣さん、結果出ましたよ」
芽衣は立ち上がり、悠真に手短に言う。
「また改めて。今度、外で」
そのまま診察室へ急いだ。
同じ呼び出しを耳にしたのは、相馬瑛太だった。
茅野美月を支えていた手が、熱いものに触れたみたいに離れる。
廊下の向こう。見慣れた背中。
頭の中が真っ白になり、瑛太は反射的に追いかけた。
「芽衣!」
