第1章

「お姉さま、私とマックスは本気で愛し合っているの」

 セリアの声が左から届く。彼女は私から三歩ほど離れた場所にひざまずき、まつげに涙をぶら下げたまま、落ちるか落ちないかのところで震えていた。

 私ははっと目を開けた。指先には、焦げた皮膚の感触がまだ残っている。

 視界に入ったのは、議会のドーム天井から下がる水晶のシャンデリア。刃物みたいに冷たい光。空気には香の甘さと古書の匂い――ここは父の書斎だ。

 私は、誓いの石の前に跪いていた。

 膝下の刻み目は、嫌というほど覚えている。百年に一度の、血盟婚の宣誓の日。

「もう……夫婦になってしまったの。彼のところへ嫁げないなら、私の人生は終わりよ」

 父は背の高い椅子に腰掛け、肘掛けを指でとん、とん、と叩く。セリアを見る目はいつも同じだ。

「困った子だ」と言いながら、甘やかしてしまう眼差し。

「エララ」父が口を開く。

「お前も、わかるだろう……」

 私は父を見なかった。見ていたのはセリアだ。

 俯いた彼女は肩を小刻みに震わせ、恋に追い詰められて壊れそうな少女そのもの――に見える。

 けれど、口元の筋肉が妙に固い。瞳の奥に薄い光が宿っている。前世、火刑台の前に立っていたときと同じ――

得意げな顔。

 この子も、戻ってきたのだ。

「エララ、議会の規定では百年ごとに必ず血盟の婚約を結ばねばならん。妹がすでに――」

「妹とマックスが両想いなら、私が止める理由はありません」

 声は平らに出た。爪が掌に食い込む。ぎゅっ――そして、離す。

 書斎が一拍、静まり返る。父は固まり、用意していた説得の言葉を飲み込んだ。セリアが顔を上げる。涙はまだ残っているのに、瞳孔がきゅっと縮んだ。

 信じられないという顔。けれど、私は無表情のままだ。

「本当か? ならお前の婚約は……吸血鬼のウィマル家も枠が残っている。竜裔のドレーク家も悪くは――それとも」

「エルフの家を選びます。セラス・セレン」

 父の手が宙で止まった。

「エルフ?」眉が寄る。

「セラス・セレン……本気か?」

「本気です」私は言葉を挟む。

「変えません」

 父の顔色が微かに変わった。

 エルフのセレン一族は、三百年前に呪いを受けた。族人は四十を越えて生きられない。嫁いだところで若くして未亡人。子が生まれても呪いを引き継ぐ。議会で彼らを選ぶ者などおらず、セラス・セレンの名は毎年、婚姻名簿のいちばん末尾にぶら下がるだけ。

「……本当に、改めなくていいのか」父の声が弱くなる。

 私は立ち上がった。膝がじん、と痺れる。

「改めません」

 セリアが立ち上がるのが早すぎて、スカートの裾が脇の銅盆をはねた。水がばしゃりと床に散る。けれど彼女は足元など見ず、私だけを見ていた。

「お姉さま、エルフ……」口元を押さえ、指の隙間から笑いが漏れる。

「エルフ、いいじゃない。みんな綺麗だもの」

 そのままくるりと踵を返し、走り去る。足音が廊下の奥へ響いていった。報せに行くのだろう。

 父はため息をつき――どこか安堵したようにも見えた。私は父を見ず、書斎を出た。

 回廊を抜ける風が吹き込み、私は石壁にもたれてしばらく息を整える。さっき掌を爪で掴んだ場所が、まだ熱い。

 恨みがせり上がり、喉がきゅっと締まる。奥歯を噛み締め、ゆっくり緩める。

 それから階下へ向かった。

 階段の踊り場で、セリアの声が控えの間から漏れてくる。笑っている。息が続かないほど、けらけらと。誰かが何か訊いているらしいが、聞き取れない。ただ彼女の語尾だけがやけに高く響く。

「エルフよ! あの人、エルフを選んだのよ!」

 私は歩みを止めない。

 控えの間の扉がきちんと閉まっていない。セリアはもう私に気づいていた。出てきた彼女の顔には、引っ込めそこねた笑いが張り付いている。

「お姉さま、おめでとう」首を傾げる。

「セラス・セレンですって。エルフ一の美貌だものね」

 そう言いながら口元を押さえ、肩をぷるぷる震わせた。

「どうせ……どうせお姉さまは丈夫だし。もしかしたら、彼より何年か長生きできるかも」

 私は彼女の横を通り過ぎる。

「縁起のいいことを言ってくれてありがとう」

 セリアの笑いが、半拍だけ途切れた。

 振り返らず、廊下の突き当たりまで行って自室の扉を開ける。

 閉める。

 部屋は静かだった。化粧台の上には、明日の式のための銀の櫛と白い花。使用人たちがきっちり用意している。

 私はベッドの縁に腰を下ろし、銀の櫛を手に取ってくるりと回した。櫛歯がひやりと冷たい。

 窓の外から鐘の音が届く。日没の鐘――百年に一度だけ鳴る鐘だ。

 明日の朝、三つの家が同時に誓いの石の前で婚姻を結ぶ。セリアはマックスに嫁ぎ、私はセラス・セレンに嫁ぐ。

 前世は――

 前世、私はマックスを選んだ。

 忠誠心があると信じた。狼人の継承者。目はいつも私だけを追い、評議の場では背筋を伸ばして立ち続けた。

 私は彼の子を産んだ。出産の日、その子の血統が「裁決者」だと判明し、議会は夜を徹して会議を開いた。次代の執政者に推挙されたのは、私の子。

 そしてマックスの権力は、一夜で十倍に膨れ上がった。

 セリアは吸血鬼のウィマル家へ嫁いだ。けれど吸血鬼の一族は遊びが派手で――それが祟って、彼女は呪いに蝕まれ、終生子を授かれない身体になった。

 やがて彼女は壊れた。嫉妬は狂気へ変わり、最後には火で、私と子どもを焼き殺した。

 なぜウィマルを選んだのか。理由は単純だ。ウィマルの男たちは、揃いも揃って顔がいい。

 当時の彼女は「顔は一生ものよ」と、心から楽しそうに笑っていた。

 私は銀の櫛を元の場所へ戻す。

 明日の段取りを頭の中でなぞる。教会は議会の東側。誓いの石には三つの立ち位置があり、中央が狼人、左が吸血鬼、右がエルフ。

 セラス・セレンは右に立ち、私はその正面に立つ。

 実を言えば、彼に会ったことは一度しかない。死ぬ直前、炎の向こうに見た最後の一瞥。銀の髪と碧い瞳――伝承どおりの姿だった。

 扉がノックされた。

「お嬢様。セリア様が下にいらして……明日の式で、お嬢様が主婚人の席を譲るとお約束なさった、と」

 主婚人まで奪う気だ。

 主婚人は慣例として長姉が務める。それを奪い取れば、私は観礼席に立たされ、セリアがマックスに嫁ぐ姿を見せつけられる。

「譲ってあげて」

 執事の足音が遠ざかる。

 私は白い花を、試しに整えてあったかつらに挿し、鏡の中の自分を一度だけ確かめる。

 鏡の顔は静かだった。瞳の奥に、何の揺れもない。

 ――それでいい。

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