第3章
婚礼の会場。
評議会聖廷大広間のドームは、星焔の祝砲に染め上げられ、深い群青に沈んでいた。神託者の一族が左右に並び、指先で空気をなぞっては、銀白の火を次々と灯していく。客席は満員。狼人の一族、吸血鬼の一族、三つの傍流の長老たち――側廊にまで人が立ち尽くしていた。
マックスは誓いの石の中央に立ち、セリアは彼の腕に縋るようにして寄り添っている。ウェディングドレスには火のダイヤがびっしりと嵌め込まれ、歩くたび床に小さな光の斑が落ちた。
私は正門から入らなかった。
召使いに導かれ、側廊を回って東翼へ。重いオークの扉が押し開けられると、そこにあったのは――エルフ族のための婚礼側室だった。
大広間の十分の一ほどの広さ。石壁には蔦が絡み、星焔の祝砲も、満席の客もない。あるのは木椅子が数列、そこに座るエルフ族の人々だけ。
それなのに、誰もが胸を震わせていた。涙を拭う者さえいる。銀髪の老女が杖を握り、唇をわなわなと震わせた。
「千年近く……あなたが、初めてです。私たちを選んでくれた方は」
セラスは誓いの石の右側で待っていた。入口は見ず、俯いたまま長い箱の縁を指で何度も撫でている。私が目の前まで行って、ようやく顔を上げた。
誓いの言葉は短い。けれど彼は二度もつかえた。エルフ族の人々は笑って拍手し、心から私たちを祝福してくれた。
指輪の交換のとき。冷たい指先が私の薬指に触れた、その瞬間――背後から、ひゅうっと口笛が飛んだ。
式はあっという間に終わった。
側室の外、ハイヒールが大理石を叩く音が響く。
セリア。
彼女はさらに派手なドレスに着替え、首元にはわざとらしく吸い痕をいくつも見せつけて、顎を上げたまま私の前に立った。
「お姉さま、狼人って……精力が恐ろしいほど旺盛なのね」首を撫で、艶っぽく笑う。
「たぶん、そう遠くないうちに裁決者を宿せるわ」
「それは、よかったわ。願いが叶うといいわね」
セリアは私の背後のエルフ族を一瞥した。質素な衣を上から下へと流し見て、口元をわずかに歪める。そして背を向け、聞こえるか聞こえないかの声量で、短い言葉を投げ捨てた。
「乞食小屋」
言い終えるなり、踵を返して歩き出す。
私は彼女の腕を掴んだ。
「エルフ族に謝って」
セリアが勢いよく振り向く。目を見開き、声を荒らげた。
「頭おかしいの?」
「セリア」
指に力がこもる。
「謝って」
言い争いは人を呼ぶ。マックスが大股で近づいてきて、父も大広間の方から駆けてきた。後ろには面白がってついてくる客がぞろぞろと続く。
「どうした」父の視線が、私とセリアの間を行き来する。
「この人が! このエルフどもに謝れって!」セリアの声が甲高く跳ね、涙声になる。
「事実を言っただけじゃない! なんで私が!」
銀髪の老女が立ち上がり、杖をついてこちらへ歩み出た。
「お気になさらず。エルフ族は、もう慣れております」
声音は静かだった。けれど杖を握る手は、わずかに震えていた。
父は老女を見て、次に野次馬の群れを見た。唇が動き、逡巡の末にセリアへ向き直り、低い声で言い切る。
「謝れ」
。
セリアの顔が、平手打ちを食らったみたいに強張った。
「パパ――」
「謝れ」
セリアはエルフ族へ向けて顔をねじる。口角がひくつき、蚊の鳴くほどの謝罪を吐き捨てると、すぐ背を向けた。去り際、私を睨みつけ、耳元へ顔を寄せる。歯の間から絞り出すような声。
「一生、あんたには勝たせない」
私は指をほどいた。
側室へ戻ると、エルフ族の人々は何人か散っていた。セラスは誓いの石のそばに立ったまま、まだ指輪の箱を握りしめている。
「エララ」口にして、彼は一度言葉を止めた。
「すまない。式が、こんな形になって――」
「セラス」
彼が黙る。
「帰ろう」
新居はエルフ領の縁に建つ小さな木造の家だった。広くはない。窓の外には月光に濡れた森が一面に広がっている。セラスは墨緑の外套を脱ぎ、背を向けて衣紋掛けにかけ――振り返った。
私は、息を呑んだ。
エルフの身体は人間とは違う。
肩は広く、腰はきゅっと絞られ、腹の筋は刃物で刻んだみたいに鮮明で。その下は――
こんなに……大きいなんて。
視線に気づいたのだろう。セラスの顔色がさっと白くなった。何かに撃たれたように屈んで床の服を拾い、慌てた動きで足を取られる。
「すまない――僕は――君は、無理をしなくて――」
私はその服を引き抜いた。
一歩詰め、彼の首に腕を回す。冷たい香りがまた鼻先に絡む。雪杉と月光が混じった匂い。背伸びをして、唇を耳朶に寄せた。
「いい匂い」
彼の身体が一瞬、硬直した。
そして顔を傾ける。碧い瞳が一寸先まで迫る。言葉にならないらしく、耳の先がまた淡く染まった。けれど今度の目は違う。碧の奥に、小さな光がちらちらと瞬いている。
落ちてきた口づけは、それまでの抑制とは別物だった。
片手が私の腰をきつく抱え、もう片方は指を絡めて十指を結ぶ。そのまま寝台へ押し倒される。
高窓から月が差し込み、銀の長い髪がほどけて枕に広がる。私の黒髪もほどけて絡み合う。荒い息。鎖骨へ落ちる口づけ。指の腹が肌を辿るたび、かすかに震える。屋外では夜風が森を渡り、葉擦れの音がさらさらと一晩中続いた。
空が白み始めたころ、ようやく彼は止まり、私を腕の中に囲い込む。顎を私の頭頂に乗せたまま。
しばらくして、囁く。
「エララ」
「うん」
「僕を選んでくれて……ありがとう」
三か月後。
ある報せが、魔法評議会全体を揺らした。セリアが妊娠したのだ。
千年のあいだ、人間と血脈の一族の結びつきが、わずか三か月で自然に懐妊した例など一度もない。
狼人はこれを祝して大宴席を張り、聖廷大広間をまるごと借り直した。婚礼以上の見栄と規模。マックスは狼人の長老たちに囲まれて酒を注がれ、得意満面で杯を重ねている。誰もが言った――裁決者の座は、狼人のものだと。
宴の席で、セリアが腹を突き出して私の隣に座った。ぴったりしたドレスで、腹部をわざときつく締め上げて丸く強調し、座るときは腰を支える仕草までしてみせる。
「お姉さま」彼女は私の下腹を横目で見た。
「三か月よ。お腹、まだ何の変化もないの? まさか……ダメなんじゃない?」
首を振り、声を落とす。隣の二卓にぎりぎり届く声で。
「やっぱり父の正統な血じゃないと、子を宿す力もないのね」
私は杯を取り、ひと口だけ含んだ。
「史上最速と言われた政略結婚の懐妊でも、丸一年はかかったそうよ」
杯を卓へ戻し、彼女を見上げる。
「妹が三か月で済んだのなら……その間に何があったのか。知っているのは、あなただけでしょうね」
セリアの顔から血の気が、一瞬で引いた。
「……あ、違う。もしかしたら、他にも知ってる人がいるかもしれないけど」
彼女は何か言い返そうとして唇を動かし――言葉が出なかった。立ち上がる拍子にテーブルクロスへ足が引っかかり、グラスが倒れる。赤ワインが卓一面に広がった。彼女は振り返りもせず化粧室へ向かい、妊婦とは思えない速さで歩いていった。
マックスは向こうで乾杯の輪の中だ。何も気づかない。
一か月後。
セリアは難産となり、三日三晩。
報せは途切れ途切れに伝わってきた。まず長老会が三人の医師を狼人領へ送り込んだこと。次に、固く閉ざされた産室の扉。そして、沈黙。さらに父が見舞いに行ったが、門前払いを食らったこと。
誰も、その子を見ていない。性別も知らない。裁決者の血統検査の結果さえ、公表されなかった。
狼人は、何も語らなかった。
けれど、皆わかっていた。
その子は――必ず、何かがおかしい。
