第4章
半月ほどして、父から急使が届いた。
紙片に書かれていたのは、たった一行。
速やかに帰れ、急用。
その手紙をセラスに渡すと、彼は一瞥しただけで立ち上がり、黙って支度を始めた。私を家まで送り届けるつもりらしい。
屋敷の門前に着くなり、まだ中へ入ってもいないのにセリアの泣き声が耳に飛び込んできた。
廊下を抜けて居間へ向かうと、人が輪を作るように立っていた。父もいる。マックスもいる。それに狼族の長老が数名。セリアはソファの隅に縮こまり、腕の中に赤い塊を抱えている。
狼の子だ。赤毛の。
「この子は、私とマックスの子よ!」セリアは狼の子を潰れそうなほど抱き締め、しゃがれた声で叫んだ。
「毛色の変異なんて、別に珍しくもないでしょう!?」
居間の中央に立つマックスは、嵐の前夜みたいに顔を曇らせていた。純血の白狼。アシュヴェイ家が千年の間、赤毛の血を出したことなど一度もない。
「セリア」
低く、底冷えのする声。
「言え。俺に隠れて、何をした。……その畜生は誰の子だ?」
「違う! 私は……!」
「本当のことを言わないなら、今ここで殺す」
父が青ざめて両手を振った。
「マックス、落ち着け、話し合えば——」
セリアはソファからずるりと滑り落ち、狼の子を抱えたまま、よろよろとマックスの前まで歩いた。震える手で子を持ち上げる。
「本当に、違うの……ほら、目を見て。あなたと、そっくりでしょう……?」
マックスは乱暴に狼の子を受け取った。
さっきまで静かだった子は、彼の顔を見るなり一瞬固まり——次の瞬間、火がついたように泣き喚いた。甲高く耳を裂く声が、居間の空気を震わせる。
マックスの顔が歪む。
彼は狼の子を高く掲げた。
私が一歩踏み出すより早く、セラスが飛び出していた。
叩きつけられる——その寸前。セラスは床を滑るように膝をつき、両手で赤い毛玉を確かに受け止めた。小さな狼は掌の中で丸まり、全身を震わせながら、爪で必死に彼の指へしがみつく。
胸の奥が、きりきりと痛んだ。
前世の炎。掠れ果てるまで泣いた、あの子の声。
一瞬で、消える。
セラスは立ち上がり、狼の子を胸に抱き込んで庇った。彼は私を一度だけ見て、何も言わない。
マックスの胸が荒く上下し、指の関節が白くなるほど拳を握り締めた。
「セリア。狼人は、伴侶への絶対の忠誠を尊ぶ。だが、愚かさまでは尊ばない。……お前は俺を裏切った」
「違う!」セリアは床に伏し、涙で顔をぐしゃぐしゃにした。
「この子はあなたの子よ! 毛色のことだって、私だって——」
「黙れ」
セラスが、口を開いた。
「神諭者を呼びましょう」
「血契の術を使えば確かめられます。狼族と神諭者は昔から友好関係にある……難しい話ではありません」
マックスは数秒、沈黙した。やがて短く命じる。長老が即座に屋敷を出ていった。
三日後。
聖廷の大広間は、人で埋め尽くされていた。竜裔、吸血鬼、三大の傍流——結婚式の日以上に揃っている。セリアは広間の中央に立ち、赤毛の狼の子を抱えていたが、顔は泣き崩れて目も当てられない。
神諭者は銀のローブを纏った老爺で、骨の杖を手にしている。彼は狼の子の前へ進み、杖先を幼獣の眉間へと軽く当てた。
ぱっと、光が弾けた。
血の色をした刻印が五つ、眉間から飛び出す。ひとつはマックスの手へ。残り四つは窓の外へ散り、狼人領の別々の方角へ一直線に走った。
広間が、二秒だけ凍りつく。
神諭者は杖を引き、無表情のまま言った。
「マックス殿。あなたはこの子の父です」
セリアが弾かれたように顔を上げる。
「——の、一人です」
どっと、ざわめきが押し寄せた。
竜裔家の代表が机を叩いて立ち上がり、吸血鬼の長老は肩を揺らして笑った。マックスはその場に立ち尽くし、手にしていた指輪の箱を握り潰した。
狼族は、居合わせたすべての家の笑いものになった。
四人の狼人が縄で引き立てられ、大広間へと連れてこられる。白が三人、赤が一人。
赤毛の狼人は端で膝をつき、やけに艶やかな顔立ちをしていた。眉をきゅっと吊り上げるだけで、吸血鬼や妖精族の艶者よりも人を惑わせそうな目をしている。
セリアはその男から目を逸らせず、唇を震わせていた。
私は彼女を見た。
愚かな妹。生まれ変わったところで、結局あの顔に殺されるのか。
「セリア」
マックスの声は、氷がひび割れるみたいに冷たい。
「四人だ」
「違う、私が悪いの!」セリアは後ずさり、裾に足を取られて尻もちをついた。
「あなたが毎日毎日、子どもを急かすから……だから私、あんな手を——!」
床に手をついて立ち上がる。涙とアイシャドウが混じって、頬を黒く汚して流れた。
「神諭者だって言ったでしょう! この子にはあなたの血も入ってる! あなたの子なら、それでいいじゃない! 裁決者だって狼族なのよ!」
竜裔家の代表が、静かに立った。
「裁決者は、政略結婚の正妻が産んだ長男が継ぐ」声量は大きくない。だが、誰の耳にも明確に届いた。
「血が混じった者に資格はない」
吸血鬼家も同意を示した。末流のエルフ族は——セラスもまた、小さく首を振る。狼族と親しい神諭者は中立として棄権したが、セリアへ向ける眼差しには失望が滲んでいた。
反対二票、棄権一票。
狼族の継承者計画は潰えた。
マックスは踵を返すと、椅子を一脚、思い切り蹴り倒した。背もたれが床に叩きつけられ、砕けた木片がセリアの足元へ跳ねる。彼女はびくりと身を縮め、赤毛の狼の子を抱き上げ、俯いたまま外へ出ていった。
私の横を通り過ぎるとき、ほんの一秒だけ足を止める。
けれど、顔を上げて私を見ることはなかった。
帰り道、セラスはずっと黙ったままだった。馬車ががたがたと揺れ、彼は窓の外を眺め、膝の上で指先をとん、とん、と鳴らしている。
「どうしたの?」
彼は振り向きかけて、唇を動かし——また結んだ。しばらくして、やっと絞り出すように言う。
「さっき……赤毛のやつ、ずいぶん見てた」
私は一瞬、言葉を失った。
「……俺、格好よくない?」
声は小さいのに、耳の先がじわじわと赤くなる。聞きたいのに怖い、そんな顔。
私は口の端を上げた。
「あなたが一番、綺麗よ」
彼の耳の赤みが、すっと濃くなる。
「特に、夜……ベッドの上でね」
翌日、私はその言葉を口にしたことを心底後悔した。
甘く見ていた。私は丸一日、ベッドから降りられなかった。
