第1章

 灼けつく腐食が喉の奥まで染み込む――蝕魂淵の熱と痛みから、わたしははね起きた。

 次の瞬間、意識が生きたまま引き裂かれるみたいに引きずられ、馴染んだ悪夢へと叩き戻される。

 神域、神選殿。

 主神が宙に浮かび、十二枚の翼が放つ光が天井いっぱいに広がっていた。

「エラー、ライラー。本日、おまえたちには唯一の命途を授ける。二つに一つだ」

「竜妃――承光域における至高の権柄」

「蛇裔――堕暗域。卑しきものとして扱われる」

 ……死ぬ直前、最後に見た光景そのまま。

 あのときライラーはわたしの前に跪き、手首に縋りついて、狩られる鹿みたいに泣いた。

「お姉さま、暗域が怖い……蛇が怖いの……わたし、死んじゃう……お願い、蛇裔を選んで……わたしの代わりに……」

 わたしは心が揺らいだ。

 口を開き、彼女のために選ぼうとした、その刹那――ライラーは顔を上げた。瞳の奥に、隠しきれない算段が光っていた。

 次の瞬間――

 彼女は殿内に響く声で叫んだ。

「わたし、蛇裔を選ぶ!」

 わたしは、逃げ場もなく「竜妃」の席へ押し出された。

 竜神ソールが降臨したとき、金色の瞳はわたしだけを捉え、神域の頂へと持ち上げた。

 光の弧に抱かれ、竜族に跪拝される。誰もが羨む、ただひとりの竜妃。

 けれど、あれは牢獄に施された金箔だった。

 竜の嗣を宿したあと、ソールは自らの手でわたしの神骨を抜き取り、光の檻へ閉じ込めた。

 金色の檻の中で、噬神の痛みに裂かれ、祈福を強いられ、永遠の繁殖器として扱われる日々。

 一方、ライラーは――

 暗域でも最底辺の残蛇ケイロンに嫁いだ。尻尾は断たれ、片目は盲い、霊脈は竜族に砕かれた棄て子。

 彼女は屈辱のすべてを彼にぶつけた。鞭で、すでに爛れた背を打ち据え、毒沼の縁で跪かせ、靴先を舐めさせた。

 竜族が暗域を囲剿した夜、逃げるためにケイロンを盾に突き飛ばしたのも彼女だ。

 それでもなお、表向きのわたしの栄華に嫉妬し、蝕魂淵へと誘い込んだ。

 堕ちる直前、彼女は耳元で小さく笑った。

「お姉さま。あなたがわたしより少しだけ惨めに死んだら、それで満足」

 骨の髄まで刻みつけた。

 そして今、神選の瞬間にわたしは戻っている。

 ライラーは隣に立ち、「竜妃」の文字を、今にも呑み込もうとするみたいに凝視していた。

 次の瞬間、彼女はわたしに体当たりし、肩を石段へ叩きつける。ぐい、と体重をかけて押さえつけた。

「お姉さま、またわたしの命を奪うつもり?」

 指が顎を掴み、骨がきしむ音が耳の奥で鳴った。

「竜妃は、わたしのもの」

 言い捨てると、彼女は振り向き、主神へ向けて声を張り上げた。

「わたしは竜妃を選ぶ!」

 光柱が彼女を貫き、狂気じみた熱に歪む顔を白々と照らす。

 わたしが身を起こした、そのとき。

 「ぱんっ」と乾いた音が弾け――

 ライラーの平手が、容赦なくわたしの頬を打った。

 視界がちかちかして、黒が滲む。

 彼女は、咲き誇る毒薔薇みたいに笑う。

「あなたみたいなの、ずっと踏まれてればいいのよ」

 そして高く足を上げ、わたしの肩を踏みつけた。ぐり、と骨まで押し潰すように。

「お姉さま、前の生で散々いい思いをしたでしょ。今度はわたしの番」

 光が彼女を呑み込みかけた、そのとき――ライラーは手を上げた。

 神殿の隅へ、指をくい、と曲げる。

「そのゴミを引きずってきなさい」

 蛇族の衛兵が、血に濡れた影を引きずり、わたしの足元へ放り投げた。

 どさり、と鈍い音。

 胸の奥が、ひゅっと縮む。

 断たれた尾。

 潰れた左目。

 砕けた霊脈。

 薄い呼吸。

 ケイロン。

 前の生で、彼女が鞭打ち、辱め、踏みにじって殺した男。

 彼は必死に顔を上げ、唯一光を映せる右目で、縋る先を探している。わたしを見つけた途端、怯えた獣みたいに身を縮めた。

 ライラーは遠慮なく笑い声を転がす。

「お姉さま。あなたには、この半端者がお似合い」

 彼女の踵がケイロンの折れた尾骨を踏み抜く。

「ぐっ……」

 鈍い「ごきっ」という音。男の体が苦痛に弓なりに跳ねた。

 ライラーはわたしを見下ろしたまま言う。

「ほんと、お似合い。ひとりは光に捨てられて、ひとりは蛇に捨てられた」

 身を屈め、耳元へ唇を寄せる。わたしにしか届かない音量で囁いた。

「お姉さまはそのゴミの寝床になるの。暗域に閉じ込められて、一生、顔も上げられない」

 彼女は離れ、主神へ向けて両手を高く掲げた。

「わたしは光の竜妃となる!」

 光が彼女の周囲で神紋へ凝り固まり、勝利に酔う顔を彩る。

 わたしは視線を落とした。踏まれ、息も絶え絶えのケイロン。

 震える手が、わたしの裾を掴む。最後の命綱に縋るみたいに。

 胸のどこかが、すうっと静まり返った。

 迷いも、ためらいもない。

 わたしは立ち上がり、主神へ言い放つ。

「わたし、エラーは――」

「蛇裔を選ぶ」

 殿内が、一瞬で凍りついた。

 ライラーの瞳孔がきゅっと縮む。

「……は? 何を言ってるの?!」

 轟、と暗域の力が落ちる。夜色の紋が肌を這い、骨が再生と強化の狭間で震えた。

 わたしはケイロンの前へ進み、屈んで、瀕死の体を抱き上げる。

 彼は、かすかな震え声を漏らした。抱かれること自体が信じられない、そんな音。

 わたしは顔を上げ、ライラーを見据える。

「ライラー」

「あなたが奪ったのは、栄光じゃない」

「地獄よ」

 承光域の神紋が彼女へ完全に刻まれ、ライラーの顔が歪む。

 わたしはケイロンを抱いたまま、暗域へ続く黒い裂け目へ足を踏み出した。

 今生では――

 竜族の枷を、この手で引き裂く。

 暗域が真に戴くべき王を、取り戻す。

 そしてライラーに思い知らせる。

 彼女が奪ったものはすべて――百倍にして返す。

 暗域の門が、轟然と閉じた。

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