第2章

 ケイロンを抱えたまま、砕けた蛇鱗の欠片を踏みしめる。空気には、かすかな血の匂いが漂っていた。

 腕の中のケイロンは、氷みたいにこわばっている。

 近づくのが怖い。けれど、振りほどくのも怖い。そんな矛盾を、体じゅうで抱えたまま。

 わたしは彼をそっと、石洞の入口の地面に下ろした。

「ケイロン。着いたよ」

 彼は身を縮め、ちぎれた尾を後ろへ引きずる。

 何も言わない。わたしを見ない。

 耳だけがぴくりと震えた。次の一歩で蹴り飛ばされるのを待っているみたいに。

 わたしは静かに訊く。

「痛い?」

 ケイロンは何かに刺されたように全身をびくっと跳ねた。潰れた左目は焦点を結ばない。それでも右目だけは、必死にわたしから逸らそうとする。

 かすれた声が漏れた。

「で……殿下……ぼ、僕……自分で……這えます……ご迷惑は……」

 わたしはしゃがみ、彼の持ち上がりかけた身体を、もう一度抱き寄せた。

 彼が固まる。

「エラー……」喉を焼くような声で、彼は言った。

「ぼ、僕……汚い……」

 わたしの手が、断ち切られた尾の付け根で止まる。

 蛇族にとって断尾が何を意味するのか、わたしは知っている。

 屈辱。無価値。家畜じみた奴隷。

 竜族に霊脈を砕かれ、光域の石段に跪かされ、衆目の前で尾を踏まれ、ライラーに血肉が滲むまで打ち据えられた。

 最初から、彼は「人」として扱われていなかった。

 わたしは顔を上げ、洞の奥の闇を見据える。

「ケイロン。あなたを連れ戻したのはね」わたしは言った。

「また跪かせるためじゃない」

 彼の肩が、びくんと跳ねる。

 続けようとした、その瞬間――

 洞の外から、嘲るような竜の声が降ってきた。

「よぉ。暗域はまた新しい蛇女を拾ったのか?」

 重い足音。欠けた角の鎧をまとった竜族の巡察兵が、数人、入口を踏み荒らして入ってくる。

 竜域と蛇域には境がある。けれど竜族は昔から、暗域を便所みたいに侮り、好き放題に出入りしてきた。

 先頭の欠角の竜将が、わたしを見据えて薄く笑う。

「蛇裔ってこんなツラか? 今までの臭い皮袋よりは、まだマシだな」

 視線が地面で丸まるケイロンへ落ちた。

「ちっ……なんだ、あの不具の蛇かよ」

 竜将が、ケイロンの折れた尾の付け根に足を乗せた。

「カキッ」

 ケイロンの身体が激しく痙攣する。それでも、声ひとつ上げない。

「で……殿下……」喉の奥から、息みたいな音が漏れる。

「だ……大丈夫……僕のことは……」

 わたしの頬から血の気が引いた。

 竜兵たちは、いっそう大きく笑う。

「蛇女、そいつが気に入ったのか? 尾もないガラクタだぞ。何を食わせる? おまえの血か?」

「はははは――蛇族ってのは、卑しさだけは才能満点だな」

 竜将が足を上げ、もう一度、容赦なく踏みつける。

 ケイロンは痛みで弓なりに身を折りながら、それでも必死に首を振り、さらに低く跪いた。

「エラー……だめ……だめ……お願い……僕を……」

 胸の奥に溜まった黒い霧が、ぶわっと弾けた。

 次の瞬間――

「……もういい」

 喉の底から、声を押し出す。

 竜将が鼻で笑う。

「小蛇が。おまえ、自分を誰だと――」

 わたしは手を上げ、やつの喉骨を掴んだ。

「カキッ」

 掌の中で、骨が砕ける音がした。

 竜将は信じられないように目を見開く。

「おまえ……蛇裔が……どうして――」

 もう片方の手で、竜角の根元を掴む。引き下ろす。

「ガキィン――!!」

 角が、根元から生々しく折れた。

 血が床に飛び散り、竜将は甲高い悲鳴を上げる。

 残りの竜兵たちは、顔面蒼白になった。

「うそだろ……素手で竜角を折った……!」

「成竜の角だぞ……ありえねぇ……!」

 わたしは折れた角を、ゴミみたいに地面へ投げ捨てた。

 それから、一歩ずつ、残った竜兵に近づく。

 彼らは即座に後ずさり、翼をばたつかせる。

「光域の巡察だ……俺たちは……ただの……定期点検で――」

 わたしは一人の翼の付け根を掴んだ。

「定期?」冷たく言う。

「わたしの者を踏むのが、あなたたちの定期点検?」

「ち、違う! おまえを踏んだわけじゃ――」

 わたしは手首を、ほんの少し捻る。

「カキッ!」

 分厚い竜翼が、無理やり折れた。

 洞窟いっぱいに悲鳴が響く。

 残りの竜兵はもう足を止めない。転げるように、暗域の外へ逃げていった。

 洞は、再び闇に沈む。

 わたしは振り返る。

 ケイロンは、まだ跪いたままだった。

 震えが止まらない。それでも、顔を上げない。

「エ……ラー……」今にも泣き崩れそうな声で、彼は言った。

「どうして……僕なんかのために……」

 わたしは近づき、しゃがんで、手を伸ばした。

 けれどケイロンは怯えて身を引き、背中を冷たい岩肌にぶつける。それでも、離れすぎることはできないみたいに、半歩だけの距離に縛られていた。

「ごめんなさい……ごめんなさい……僕が……あなたに手を出させた……怒らせた……」

 盲いた目が潤んでいる。いつだって罰を待っている、そんな湿り気だった。

 わたしは彼の手をそっと取る。

「ケイロン。あなたは、わたしを怒らせてない」

 彼の呼吸が、ぴたりと止まった。

 わたしは断尾のあたりを巻いていた布をめくり、傷を処置しようとする。

 指先が尾の根元に触れた瞬間――淡い光が、ふっと灯った。

 鱗の下に隠れていた、古い蛇紋。蛇神が遺した呪印みたいな、それ。

 ケイロンが激しく震える。電流が走ったみたいに、身体が跳ねた。盲いた瞳の奥に、一瞬だけ光が差す。

 まるで初めてわたしを「見た」みたいに、彼はゆっくり顔を上げた。

 震えているのに、言葉だけは揺るがない。

「エラー……僕……もう二度と、あなたから離れない」

 その瞬間、彼は果てのない闇から手を伸ばしてきた――

 わたしは、その手を握り返す。

 洞の外。遠くで、竜族の警鐘が突然鳴り響いた。

 気づかれたのだ。

 蛇神の血脈が――目覚めはじめている。

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