第3章
暗域の上空で、山も海も引き裂くような咆哮が突然轟いた。
並の竜族に出せる声じゃない。
それは――
竜神ソール。
ケイロンの身体がびくりと跳ね、盲いた瞳に恐怖が走る。
「エラー……」乾ききった声で、彼はつぶやいた。
「来た」
私は顔を上げる。
闇の天蓋が黄金の神炎に照らされ、雲間から天地を貫く金の柱が墜ちた。
続いて、空中に浮かび輪を描く金甲の巨竜が無数に現れる。
竜翼が空を覆い、竜炎が大気を蹂躙する。
暗域の大地が、震えていた。
ソールの声が天穹から圧し掛かる。
「エラー――」
「俺を捨てて、蛇を選ぶというのか?」
その怒気は魂を粉々に震わせる。
ケイロンは私の手首に縋りつき、全身を震わせたまま言う。
「あいつはお前を見逃さない……連れ戻す気だ……」
私は空を見上げた。
ソールが来ることは分かっていた。
だがまさか――暗域を滅ぼす勢いで来るなんて。
「竜族の軍勢よ、命を聞け――」
ソールの声が、そのまま神罰へと変わる。
「暗域を掃討せよ。
エラーは生け捕り。
魂を抜き、骨を剥ぎ。
「永劫、幽閉せよ」
息が詰まった。
周囲の蛇族が一斉に混乱する。
「竜神が、俺たちを滅ぼす気だ!」
「退け! 暗域ごと灰にされる!」
「あの人間の蛇裔は誰だ!? 竜神自ら動くなんて!」
だが逃げる暇もなかった。
黄金の竜炎が天頂から轟然と落ち、暗域の森を一面点火した。
火の海が瞬く間に広がる。
空気は悲鳴と、骨の砕ける音と、蛇鱗の焼ける臭いで満ちた。
体勢を立て直すより早く、竜将の一体が急降下し、竜爪が私を狙う。
「エラー! 竜神が貴様に――帰還を命じている!」
ケイロンが、私の前へ躍り出た。
「ケイロン――!」
衝撃が彼の半身を打ち砕き、血が裂けた泉のように噴き出す。
痩せた身体は竜将に引きずられ、地面に深い溝を刻まれた。
それでも彼は無理やり身を起こし、千切れた尾で私の腰を巻き、砕けた身体の下へ押し込むように庇った。
「……傷つけるな……彼女を」
竜将が鼻で笑う。
「半端な蛇が、竜神の勅命を遮るか?」
次の一撃で、竜爪がケイロンの肩甲を貫いた。
ケイロンは痛みに全身を痙攣させながらも、歯を食いしばり、倒れまいとする。
「エラー……動くな……まだ、まだ……俺が……挡れる……」
胸の内側を刃で生きたまま抉られるようだった。
「ケイロン、離して!」
「だめだ……」血の泡を吐きながら、彼は言う。
「お前が死ぬ……」
竜族の軍勢がじりじりと迫り、火の海が洞穴へ逆流する。灼けた空気が皮膚を剥ぐみたいにまとわりつく。
竜たちの視線が、ことごとく私へ縫い止められる。
分かっている――
ソールが、私を見ている。
ずっと、見ていた。
天穹から降るソールの声は、見下ろす支配と所有を帯びていた。
「エラー、戻れ」
「さもなくば、この穢れた地も、蛇族も……すべて焼き尽くす」
指先が氷のように冷える。
ケイロンが突然、私をきつく抱き締め、掠れた声で言った。
「エラー……あいつを見るな」
「俺を見ろ」
震える指先が、私の頬に触れる。
片目は盲いているのに――まるで私の奥まで見抜くみたいに。
「お前は……俺の光だ」
「竜神の檻じゃない」
言葉を失った、その瞬間――
空の金光が凝縮し、破滅の稲妻へと変わった。
ソール自ら、神罰を落とす。
「エラー――俺を裏切るか?」
金光が、私の眉間へ真っ直ぐに落ちる!
避けられない。
世界が、その瞬間に音を失った。
聞こえたのは、ケイロンの魂を裂く叫びだけ。
「やめろ――!!」
彼は身を翻し、私を丸ごと胸に押し込むように抱えた。
黄金の神罰が、彼の背を撃ち抜く。
「轟――!!!」
ケイロンの身体が貫かれ、血と霊力が同時に飛び散る。
私も衝撃で血を吐き散らしたのに、彼の腕は一瞬たりとも緩まなかった。
彼の神魂が、一寸ずつ砕けていく音がした。
泣き叫び、目が潰れそうになる。
「ケイロン――離して! 死んじゃう!」
彼は顔を上げる。盲いた瞳に、光が宿っていた。
声は、ほとんど聞こえないほどに小さい。
「エラー」
「闇の中で……三生三世、待ってた……」
「今度は……」
「命で、お前を護る」
「たとえ魂が散っても――」
「二度と……お前に、指一本触れさせない」
そして、見えた。
彼の内に沈んでいた蛇紋が、この瞬間、神罰に叩き起こされる。
太古の荒ぶる神蛇が、ゆっくりと黄金の眼を開くみたいに。
暗域の蛇族が、同じ瞬間に膝をついた。
「蛇神……!」
全身が冷え切った。
ケイロン……
古の蛇神の神魂で……ソールの神罰を受け止めたのか!?
けれど――
その代償に、魂の滅びが目前まで来ている。
私は彼の砕けた身体を抱きしめ、嗚咽が止まらない。
「ケイロン、寝ないで……だめ……目を閉じないで……」
彼はかすかに笑った。
「エラー……泣くな」
その笑みは、残りの力のすべてだった。
「お前が泣くと……俺は……苦しい」
最後の声が、耳元でほどけて消える。
天穹で、ソールの怒吼が万里を裂いた。
「あの半端蛇が――神魂で……彼女を護るだと?!」
「エラー、覚悟しろ――俺の手で、そいつを殺してやる!」
瀕死のケイロンを抱いたまま、私の指先は風みたいに震え続けた。
胸のどこかが、完全に引き裂かれる。
ケイロンは、もうすぐ死ぬ。
竜宮の高空ではライラーが得意げに笑っている。
ソールは、迫ってくる。
そして私は――
光域そのものを滅ぼしたいという衝動を、初めて抱いた。
