第4章
空気には、オゾンと焼け焦げた血肉が混ざり合った、吐き気を催す臭いが漂っていた。ソールの金色の神罰が暗域の大地を叩き裂き、数百尺はあろうかという深さの黒焦げの裂谷を穿っている。傷口みたいに口を開けたその亀裂で、残り火の金炎が、まだ貪るようにぺろり、ぺろりと舐めていた。
私は砕けた石と灰の中で、硬直したまま膝をついていた。腕の中には、ケイロンをきつく抱きしめている。
軽すぎる。
指先から体温が抜けていく。
致命の一撃を受け止めるために、ケイロンは肉体のまま、古き蛇神の根源の力を無理やり押し広げた。いまは、ぼろぼろに砕けた身体が私の胸に静かに貼りつき、残っているのは、かすかな魂火だけだった。
「ケイロン……こっちを見て。お願い、見て……」
震える手で、血に濡れた頬を撫でる。声は裂けたふいごみたいに掠れていた。
ソールの神罰の余波は私の身体も引き裂いていた。体内の経脈は寸断され、息をするたび骨を腐らせるような痛みが走る。けれど、それでも——腕の中で命がほどけていくのを感じる恐怖には、遠く及ばない。
高空で響いていた竜の咆哮は、やがて遠ざかっていった。傲慢なソールは、自分がこの「卑しい残蛇」を完全に抹消したと思い込み、怒りのまま光域へ戻っていったのだ。
瓦礫の陰から、蛇族の長老たちがよろめきながら駆け出してくる。先頭にいたのは、暗域の大祭司、ウィノニカだった。彼女は私の腕の中のケイロンを見て、さらにその内に残る、ほとんど絶えかけた神の気配を感じ取った途端、枯れた脚を折って、どさりと跪いた。
「上古の王……殿下。蛇君の神魂は裂け目だらけです。いま、堕ちてゆかれます」
ウィノニカの声は、絶望の泣き声に震えていた。
「黙れ! 死ぬわけがない!」
歯を食いしばり、ケイロンをさらに強く抱き寄せる。
「暗域なら方法があるはずだ。ウィノニカ、どうすれば救える!」
老祭司は震えながら顔を上げた。濁った瞳に宿るのは、畏れと、葛藤。
「ひとつ、伝承がございます。暗域の最深部——『哀嚎深淵』に、上古の禁薬が育つと。冥河血蓮。神魂を繕い、あるいは作り直す力を持つ、と。ただし……」
「ただし?」
「摘み取るには、服す者が最も愛する者の——力の本源を、引きとして差し出さねばなりません。いったん捧げれば、殿下は永遠に、蛇裔の誇りである高速治癒を失われます。凡人のように脆くなり、痛みに引き裂かれながら、長い日々を……」
「案内して」
最後まで言わせなかった。
あの日、私はどうやって、血肉の残骸みたいな身体を引きずり、ケイロンを抱いて哀嚎深淵へ降りたのか、覚えていない。経脈が断たれた脚はとうに感覚を失い、私はただ、ソールとライラーへの骨に刻む憎悪と、腕の中のひとへの極限の執着だけで、前へ前へと這い上がっていた。
深淵の、枯骨で組まれた祭壇。その上で、冥河血蓮を見つけた。
爪で自らの胸元を裂き、蛇裔の本源を象る暗影の火を引きずり出す。私の力の核、その一団を見つめ、躊躇なく燃え立たせ、血蓮へと溶かし込んだ。
「ぁ——ッ!!」
極限の苦痛が一瞬で魂を貫いた。皮を生きたまま剥がされ、背骨の芯を抜かれていくような痛み。私は神の庇護を失った。速やかに癒えるという特権を失った。これから先の生涯、この傷だらけの器は、常人には耐えられない暗い痛みと、骨を噛むような苦しみを抱え続ける。
震える指でケイロンの唇をこじ開け、薬液を口へと流し込む。
それが喉を滑り落ちた、その瞬間——
どこか途方もなく古い、巨大な吸引が、私の意識をぐいと掴み、漆黒の渦へ引きずり込んだ。
私は、彼の神魂の最奥へ落ちた。
そこは、崩れた暗域の洞穴ではない。果てしない上古の星海だった。記憶の欠片がぶつかり合う中で、私は息を呑む。
見えたのは、天を覆うほど巨大な、九翼の大蛇。世界樹の根元に鎮座し、漆黒の鱗が、宇宙の黎明の光を反射している。彼は卑しい捨て子などではない——暗域の至高の真神、そのものだった。
場面が反転する。
天空が、眩い聖光に裂かれる。上古の神界戦争。
私はソールを見た。偽善の竜神。その傍らには、光域の主神たちが幾十と連なり、卑劣な網を張っている。毒霧、暗殺、結界——使える汚れた手段は、すべて使い尽くして。
記憶の震動の中で、ソールの吐き気のする哄笑が耳を刺した。裁決の槍を手にした彼は、九翼蛇神の眩い霊脈を、力任せに叩き砕く。星海が血で染まり、ソールの刃が九翼と長い尾を断ち落とした。さらに残忍にも、毒の刃を両眼へと突き立てる。
「聞け、泥沼の怪物。お前をいちばん暗い深淵へ投げ捨ててやる!」
ソールは頭蓋を踏みつけ、狂ったように笑った。
「予言だと? お前の血を目覚めさせる運命の相手に出会うだと? 笑わせるな。欠けた醜い器のまま、絶望の中で永遠に這いつくばっていろ!」
巨大な悲愴が、津波みたいに押し寄せた。
これが、ケイロンが数百年ひとりで飲み込んできた血と涙。
彼は本来、雲上の真神だった。掴みどころのない予言のために、私の降臨を待つために、無尽の闇と侮辱の中で、数百年を無理やり生き延びた。ライラーの鞭、竜族の嘲り、断たれた尾の痛み……それでも彼は、決して本当に背を折らなかった。私を見出してからは、残された最後の光さえ差し出して、ただ私を守り抜いた。
「ケイロン……」
星海の中で、私は霊の腕で、巨大なのに残骸だらけの彼の真身をきつく抱きしめる。涙が止まらず、頬を伝って落ちた。
現実へ戻り、目を開ける。周囲は冷え切った石壁。
腕の中のケイロンの呼吸は、すでに落ち着いていた。血蓮が神魂を護っている。だが消耗が激しすぎたのだろう——深い眠りに沈んでいる。
私はそっと俯き、盲いた左眼に口づけた。
そして身を翻し、光域の方角を見る。そこはライラーとソールのいる、雲の頂。
私は命で彼の魂を繋いだ。ならば今度は——彼をここまで追い込んだ者たちの神骨で、私たちの王座へ続く道を敷いてやる。
「ソール、ライラー」
指先にべったりと付いた目も眩む血を見つめ、私は冷たく笑い声を漏らした。
