第1章 妊活準備
四万フィートの高空。ビジネスジェットの機内——。
バスルームのドアが開き、男がバスローブを羽織ったまま出てきた。
腰紐は適当に結ばれているだけ。くっきりと割れた胸筋には、どこか生々しい赤い痕がいくつも残っている。
歩くたび、ローブの裾から長い脚がちらりとのぞく。太腿の筋肉は引き締まり、力強い。
藤井修也は思いもしなかった。自制と礼節を重んじてきた自分が、まさか一万メートルの空の上で、こんな馬鹿げたことをする日が来るなんて。
出てすぐ、ベッドに横たわる女が目に入った。膝を軽く曲げ、腰の下に枕を当てている。
底の見えない彼の視線を受け、女は言い訳するように囁いた。
「修也、お医者さまが……このほうが妊娠しやすいって」
藤井修也は目を伏せ、立花結月を見下ろした。完璧な顔立ちには、まだ情欲の名残が消えない。頬は艶やかに紅く、瞳の奥には湿り気が膜のように漂う。黒髪は枕にやわらかく広がっていた。
数年、彼に大切に囲われてきた立花結月は、甘く艶めいている。わざと媚びなくても、柔らかな声で口を開くだけで、どうしようもなく従順に見えた。
男はゆっくり身を屈める。落ちた影が結月を覆い、手が頬を撫で、柔らかく小さな耳たぶをつまんだ。
掠れた低い声が、底なしの色気を帯びる。
「……それで、医者は他に何か言ってたのか?」
医師の言葉が蘇る。卵胞が成熟し、まもなく排卵。ここ二日が最も妊娠しやすい——。
だから彼女は「奇襲」を仕掛けたのだ。
立花結月は引退前の撮影で子宮を傷め、三年の妊活はことごとく失敗した。
ようやく体調を整え、彼が子どもを好きだと知っているからこそ、今回の排卵期はとりわけ必死だった。
夫婦になって久しいとはいえ、四万フィートの空の上は彼女にとっても初めて。
緊張で体が固まり、枕に顔を埋めたいほどだ。
「……な、ない」
そのとき、男が優しく囁いた。
「結月。結婚三周年、おめでとう。これからも……よろしく」
F国の空港に降り立つと、藤井修也は薄いブランケットで女を包み、抱えたまま機体を降りた。
布が少しずれて、女の足首が覗く。
冷たいほど白い肌——白磁のような足首に、薄い赤い痕が一本。妙に艶めかしい。
やはり噂は嘘じゃない。
藤井社長は妻を溺愛し、その素顔を誰にも覗かせないほどに大事にしている——。
海外での数日間、立花結月は愛の「極み」を思い知らされた。
藤井修也は仕事で多忙で、昼は会食続き。彼女はホテルで休み、夜になると彼は狼に変わる。
バスタブ、ソファ、床まで届く窓の前——。どこにも二人の痕跡が残った。
四日三夜。結月は彼と都市をひとつ、またひとつと移り続けた。
帰国当日、力尽きた彼女は藤井修也の腕の中に丸まり、腰を掴む手が執拗に悪戯を続ける。
押し返そうとしても、声は弱い。
「やめて……修也、疲れ……」
耳元で低い笑いが揺れ、男は腰の手をじわじわ締めた。瞳には甘い寵愛が浮かぶ。
「結月。たとえ一生子どもができなくても、俺はずっと君を愛する」
首元がひやりとした。男がネックレスを掛けてくれている。
彼は敬虔なほど優しく唇を重ねた。
「結月。いい子で、俺のそばにいて。……離れないで」
立花結月が次に目を覚ましたとき、家の大きなベッドの上だった。
適当にシルクのナイトドレスを着て、ふわふわのスリッパで階下へ降りると、松田さんがご馳走を並べていた。
「修也は?」
一緒に帰ってきたはずなのに、姿がない。
「旦那さまはまだお付き合いがありまして。奥さまのために滋養のスープを煮るよう、わたしに言いつけていかれました」
松田さんは目を細める。
「本当に奥さまを大事にしていらっしゃる。花室から奥さまの好きな薔薇を摘んで、少しの間、寝顔も見守ってから慌てて出ていかれましたよ」
テーブルの艶やかな花束を見て、結月は口元に淡い笑みを浮かべた。
平らな下腹にそっと触れる。三年の間、子どものことで何度失望しただろう。
今度こそ——。
必ず、授かりたい。
スマホを開くと、芸能ニュースの通知が出ていた。三流女優の熱愛発覚、恋人が現場に差し入れに来たところを撮られた——。
ぼやけた男の輪郭。スーツ姿。結月の視線が一瞬、固まる。
すぐに目を逸らし、さっき頭をよぎった考えが滑稽に思えた。
まさか藤井修也なわけがない。幼なじみとして十八年。世の男が全員浮気しても、彼だけは絶対にしない。
食後、結月は花や草の手入れをした。
日が落ちるころ、藤井修也が最後の陽光を踏んで庭に入ってくる。
灰色のスーツに夕日が差し、薄い光の輪郭が彼を包む。柔らかな顔立ちは端正で、欠点がない。
誰が想像するだろう。二人が最底辺の泥から這い上がってきた人間だなんて。
彼は無二の気品を纏い、落ち着いた佇まいで、まるで絵に描いたような社長だった。
白いワンピースの結月は花束を放り出し、駆け寄る。
「修也、おかえり」
藤井修也は手を伸ばし、彼女の髪をくしゃりと撫でた。
「休めたか?」
彼女は軽く胸を叩く。
「ばか。もうあんな無茶、しないで」
男はその手を取り、唇でそっと触れた。
「うん。全部、結月の言うとおりにする」
こんなに優しい男が、どうして裏切れる?
結月はあの芸能ニュースを、完全に頭の隅へ追いやった。
それから藤井修也は家にほとんどいないまま、海外出張を繰り返した。大型案件を取るため、息つく暇もない。
結月の生理が三日遅れている。
忙しい彼に、今は言わないでおこう。
彼女は複数のメーカーの検査薬を買い、緊張と不安を抱えたまま試した。
三年だ。傷めた体のせいで、薬も注射も数え切れないほど。
期待しては裏切られ、また裏切られ——。今回も大きな希望は持てない。
結果を待つ数分が、焦りで胃を締めつける。
タイマーが鳴り、結月ははっと目を開けて検査薬を見る。
「……」
その瞬間——。
コンコン、と控えめなノックが響いた。
びくりとして手が滑り、検査薬が床に落ちる。
