第2章 キスさせて、愛してあげる
ドアの向こうから、藤井修也の声がした。
「結月、中にいるか?」
立花結月は床に落ちた妊娠検査薬を拾い上げる。そこには、くっきりと二本線。
嬉しさが胸いっぱいに広がって、涙が勝手にこぼれた。今すぐにでも、この朗報を修也に伝えたい。
けれど――これまでにも、生理が十日遅れて「きっと妊娠だ」と舞い上がり、結局違っていたことが何度もある。
あのときの落胆を、修也にもう一度味わわせたくなかった。
「……うん」
結月は慌てて目尻の涙を拭い、検査薬をさっと隠す。
病院でちゃんと検査して、確定してから。そうしてから伝えよう。
ドアを開けると、藤井修也がじっとこちらを見ていた。
「目、どうしてそんなに赤い?」
男は眉間をわずかに寄せ、指先で結月の赤くなった目尻をそっとなぞる。
結月は咄嗟に取り繕った。
「さっき、胸糞悪い小説読んじゃって……後引くの」
そのまま彼の首に腕を回し、話題を逸らす。
「このところ毎日出張ばっかり。少しは私と一緒にいてくれないの?」
修也は自然に顔を寄せ、額を結月の額に当てた。声は柔らかい。
「この大口の契約が決まったら、休みを取る。ちゃんと君と過ごすよ……でも、結月――」
腰に回った手が、絡みつくように締まる。
「……会いたかった」
結月が言葉を返す前に、熱い口づけが首筋に落ちた。
海外から戻って、もう二十日近い。修也は仕事に追われ、今日ようやく時間ができたのだろう。結月の柔らかな体を抱きしめた瞬間、彼の疲れがすっと消えていくのが伝わってきた。
けれど今日は、結月がいつものように応じなかった。
骨のない指が彼の胸を押し、恥じらい混じりに囁く。
「今日は……だめ」
まだ妊娠かどうか確定していない。もし本当なら、やっと授かった宝物だ。無茶はできない。
修也は結月の手を取り、口づける。
「生理か?」
結月は小さく頷いた。検査が済んだら、盛大なサプライズを――そう思って。
欲情で濡れた目が、首筋から唇へとゆっくり滑る。
「じゃあ……結月は、どうやって俺を埋め合わせしてくれる?」
体がベッドに沈められ、結月は息を呑んだ。
修也はもともと欲が強い。普段は結月に合わせてくれるけれど、二十日も我慢している今が一番危ない。
「修也、今夜は本当に……」
「いい子、結月。しない。……ただ会いたくて。キスさせて。大事にしたいだけ」
甘い言葉が網のように絡み、逃げ道を塞ぐ。
濃い熱の中、修也は指を絡め、結月の髪に口づけた。
「結月……もし俺が間違いを犯したら、許してくれるか?」
結月の瞳には、まだ情欲の湿り気が残っている。
「どんな間違いかによるよ。原則に触れないなら、怒らない。だって一番愛してるのは修也だもん」
あり得ないと思いながらも、結月は彼の頬に触れて訊いた。
「……ねえ修也。浮気した?」
結月にとって、それだけが唯一の一線だった。
金はまた稼げる。仕事もまた探せる。
でも男が浮気したら、汚れる。
汚れたものなんて、要らない。
寝室はベッドサイドの灯りだけ。修也は逆光で、瞳の奥が見えない。
ただ、低い声が真剣に誓う。
「結月。愛してる。俺は絶対に裏切らない」
想像どおりの答えに、結月は彼の首元に頬を擦り寄せた。
「私たち、支え合って十八年だよ。修也まで浮気するなら、この世にいい男なんていない」
修也は頭を撫でる。
「遅い。先に寝ろ。俺は冷水浴びてくる」
バスルームから、しゃあしゃあと水音が響く。それでも結月の心は落ち着かなかった。
頭の中は、さっきの二本線でいっぱいだ。
もし本当に妊娠していたら――男の子? 女の子?
どちらでも、修也は自分と同じくらい喜んでくれるはず。
冷たい気配を纏った修也がベッドに戻ると、結月はいつものように腕の中へ転がり込み、眠たげに呟いた。
「修也……明日、びっくりさせてあげる」
修也は寝言だと思ったのか、額にキスを落とす。
「うん。待ってる」
翌日。
結月は起きるなり病院へ行き、検査を一通り受けた。
医師の口から「立花さん、おめでとうございます。妊娠しています」と告げられた瞬間、結月は涙を止められなかった。
この三年、どれほど苦しかったかを永橋医長は知っている。治療は途切れず、排卵誘発の注射も何度も打った。そのたびに失望した。
永橋医長はティッシュを差し出す。
「まだ胎児は小さく、妊娠の確認ができた段階です。最初の三か月はとにかく安静に。大きくなってから詳しい検査をしましょう」
「ありがとうございます」
今すぐ修也に伝えたい。
引退する前から、修也はこの子を待ち望んでいた。ついに、夢が叶ったのだ。
スマホを手に取って、また下ろす。こんな大事なことを、冷たい文字で伝えたくない。
誰にも連絡せず、そのまま会社へ向かった。
専用エレベーターで最上階の社長室へ。ちょうど朝会議の時間だ。先に忍び込んで、驚かせてやろう。
バッグのチェーンを強く握り、緊張と興奮で胸が高鳴る。
社長室のドアを押し開けた。
修也が子どものことを知ったとき、どんな顔をするだろう。
自分みたいに、声も出ないほど泣くのだろうか。
「ピッ——」
ドアが開き、目の前の光景に、結月の笑みが凍りついた。
