第4章 先生、この子を堕ろしたい

立花結月は酒みたいな女だ。烈しく、喉を滑るたび刃物で裂かれる。それでも、忘れられない余韻だけが残る。

生まれつきの野性がある。彼女を見た男は皆、征服欲を掻き立てられる。

藤井修也はそれを知っていた。だからこそ焦るように成長し、羽が生え揃うほど強くなり、雨風から守り、誰にも覗かせないところまで囲い込んだ。

もう守れるはずだったのに。

最後に彼女を追い出したのが、自分だなんて。

二人の新居に残り、指先で宝飾品をひとつずつ撫でる。

艶やかな着物を着て、くるりと回って見せた彼女の姿が、まだ目の奥に焼きついている。

世間は彼女を棘のある薔薇だと言う。けれど藤井修也だけが知っている。立花結月が自分の前でどれほど柔らかく、どれほど聞き分けのいい子だったか。

煙草に火を点け、すぐに揉み消した。

立花結月がいなくても、二人の寝室を汚したくない。

書斎へ戻ると、中島秘書が控えめに告げた。

「奥さまはランス・ホテルにチェックインされました。先ほど業界の知人に連絡を取っていると。復帰を考えているようです」

藤井修也は灰を落とす。白い煙が顔を覆い、瞳の奥は読めない。

「噂を流せ。仕事は取らせるな」

中島秘書が固まった。藤井修也は、月でも摘んで妻に渡す男だったはずだ。

「藤井社長、奥さまは今、怒りの最中です。慰めるどころか潰せば、余計に遠ざかります」

「遠ざけるんじゃない。追い込んで戻させる」

藤井修也の声は冷え切っていた。

「三年も離れて、芸能界はとっくに入れ替わってる。俺が甘やかした彼女が、外の風雨に耐えられるわけがない。すぐにわかる。世界で一番彼女を愛してるのは俺だって。俺だけが、いちばん温かい庇護を与えられる」

煙が晴れ、氷のような顔が現れる。

中島秘書は理解した。彼はただの愛妻家ではない。権力を握る王だ。

権力ほど便利なものが、この世にあるだろうか。

「中島秘書。あの女に警告しろ。大人しくしていろ。次があれば許さない」

唇から漏れた冷気に、中島秘書の背筋が凍る。

「承知しました」

——

立花結月はホテルで落ち着き、ここ数年の自分の世界が藤井修也と妊活だけだったことに気づく。

全盛期に引退した選択を後悔はしていない。

けれど、男にすべてを預けること自体が愚かだったのだ。

監督に何本も電話したが、ことごとく断られた。

藤井修也が引退を誘った瞬間から、彼女の道は断たれていたのだと、今さら思い知る。

復帰など許さない。彼は彼女をペットみたいに飼い殺したいだけだ。

少し前、資金繰りを理由に彼は彼女の金をすべて移した。今、口座残高は50万しかない。

このスイートに泊まれるのは、あと3泊。

あの男は3日で彼女を家に追い返すつもりだ。

晩秋の風がバルコニーから吹き込み、体が冷える。

枕を並べた男が、商売の手口をとっくに自分へ使っていた。

だからこそ、他の女に子どもを産ませても平気だったのだ。

逃げ道を全部潰せば、彼女は何もできず、従うしかない——そう思っているのだろうか。

立花結月は、妊娠をまだ知られていないことを幸いに思った。知られたら彼は「二人とも産め」と言う。離婚などできなくなる。

九か月で終わる関係じゃない。妊娠から出産まで、白石莉緒は子どもを盾に何度でも藤井修也に接触する。

現場で撮られたことも、昨日オフィスにいたことも偶然じゃない。白石莉緒は試している。

もし立花結月が一度でも底線を下げて受け入れたら、残りの人生、胸に腐った釘を刺されたまま生きることになる。

白石莉緒に触れたら終わりだ。ゴキブリみたいにしぶとい。

致命傷じゃない。けれど、吐き気がするほど不快にさせる。

今は愛している藤井修也が、いつか子の母を愛し始めないと誰が言える?

他の女と愛を競い合えって言うわけ? そんな地獄を生きろと?

立花結月は、苦しい決断をした。

彼が白石莉緒の子を下ろさないなら——自分の子を下ろすしかない。

男のためにすべてを捨て、カナリアとして飼われている日々はもう嫌だ。

この子は最後の鎖になる。一生あの別荘に閉じ込められ、男の寵を待つだけの存在にされる。

平らな腹を撫で、立花結月は苦笑した。

「ごめんね……こんな母親のお腹に来ちゃって。つらいよね、赤ちゃん」

妊娠を知ってから、家で辞書を擦り切れるほど引いた。

百以上の名前を考えた。全部、彼女の願いを詰めた名前。結局、使えない。

「赤ちゃん。ママがあなたをこの世界に連れてきて……でも自分の手で消してしまう。来世は目をよく開けて、私みたいな無責任な母親を選ばないで。……ね?」

藤井修也と離れて初めての夜、立花結月は眠れなかった。

深夜は危険だ。彼の悪さを忘れ、良さばかり思い出す。理性と感情が頭の中で殴り合う。

藤井修也が投稿していた。

男の腕に猫が寄り添い、男の手が優しく撫でている。虎口の傷跡がはっきり見える。

数秒の動画を何度も見返し、胸が刃で裂かれるように痛んだ。

藤井修也は、彼女を誰より理解している。どうすれば心を掴めるか知っている。

まるは数年前、彼女が見つけた野良猫だ。野犬が子猫の群れを襲っていた。助けに入った彼女へ野犬が噛みつき、間一髪で藤井修也が駆けつけた。噛まれたのは彼の虎口。あの傷が残った。

血を流しながらも、彼女を宥めた優しい顔。

鼻の奥がつんとし、立花結月はスマホを握りしめる。

そのとき、白石莉緒がその投稿に「いいね」を押しているのが見えた。

藤井修也と立花結月はカップルのアイコンだった。彼が薔薇を差し出し、彼女が受け取る構図。

いつの間にか白石莉緒も、彼女と同じ構図のアイコンに変えていた。

吐き気がした。立花結月は、彼に関するものを全部消した。

藤井修也は、固定していた「愛する可愛い妻❤」のアイコンが真っ白になっているのに気づく。

開くと、立花結月の名前は「。」になっていた。

プロフィールも変わっている。

——全劇終。

翌朝。

立花結月は幽霊みたいな顔で病院に現れ、永橋医長を驚かせた。

顔色は真っ青、目の下には濃い隈。目尻は赤く、泣いた痕が残る。声も掠れていた。

「先生……この子、下ろしたいです」

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