第5章 彼女を帰らせる?彼女は振り向いてG市へトップスターを探しに行く
永橋医長は、自分の耳を疑った。言葉が喉でつかえ、かすれた声が漏れる。
「……え? いま、何と? 立花さん、言い間違いですか。それとも私の聞き違い? それ、あなたがずっと望んでいた子でしょう」
たった一晩で、別人になっていた。
立花結月は目を真っ赤にして、掠れた声で言った。
「もう決めました。この子は……今じゃない。手配をお願いします」
永橋医長は深く息をつく。
「まだ小さすぎて処置はできません。最低でも妊娠四十日を過ぎてからです。三週間後で予約を入れられます。その間、よく考えて。本当に……手放すの?」
病院を出ても、結月の頭の中は医師の言葉でいっぱいだった。
――立花さん、あなたの体のこと、わかっていますよね。もともと傷がある。三年かけてようやく整えたのに、中絶はまた大きな負担になります。次に子どもが欲しくなっても、簡単じゃない。
――子どもは、何も悪くない。
そんなこと、結月だって痛いほどわかっている。
誰よりも、この子を愛している。
けれど、産んだら――自分の人生は、どうなる?
見上げた空は広く、雀が翼を広げて飛んでいく。
子どものために、もう一生を差し出すのか。
家庭に戻る選択なら、すでに一度やった。
それでも藤井修也は、最後には彼女を裏切った。
これは、唯一の抵抗だ。泥沼から這い出るための、最後の足掻き。
子どもが生まれてしまったら、もう逃げられない。
たった三年で、藤井修也は彼女の未来も、人脈も、全部断ち切った。
五年、十年――美貌が衰え、稼ぐ術もなくなって、男の心が変わったら。自分はどこへ行けばいい?
そんな生き方は、嫌だ。
結月の瞳から、悲しみがすっと引いていく。
この道が塞がれているなら、別の道を行く。
藤井修也の地盤は京。だからといって、芸能界の隅々まで支配できるわけじゃない。
――G市の芸能界。
結月の脳裏に、引退前に大ヒットした一本がよみがえった。
映画『拙者』。あの作品で、彼女と主演はそろってトップスターとトップ女優の座を掴んだ。
あの頃、結月と氷室蒼生のカップル推しは熱狂し、修也は露骨に嫉妬した。
彼を宥めるために、授賞式で遠回しに告白して、結婚と出産を宣言したのだ。次の人生へ進む、と。
もし復帰一作目で氷室蒼生と組めたら――必ず跳ねる。
氷室蒼生は三年前にG市へ行ったと聞く。結月は千以上の連絡先を掘り返し、ようやく彼のアカウントを見つけた。
アイコンは、当時の『拙者』のスチール。
黒衣の彼が片膝をつき――まるで臣下のように頭を垂れている。
どの場面だったか、思い出せない。
三年、業界を追っていなかった。冷え込む映画界、短編ドラマの台頭。転業する者も多く、彼の噂も聞かなくなった。
このアカウントも、もう使っていないかもしれない。更新は三年前で止まっている。投稿も一本だけ。作品の切り抜きで、宣伝用だったのだろう。
追い詰められた結月は、試すように二文字だけ送った。
「いる?」
返事なんて来ないと思った。
なのに、すぐに通知が震える。
氷室蒼生「いる」
息を呑んだ。秒で返ってきた。
まだ芝居をしているのだろうか。
迷っていると、また震える。
氷室蒼生「待ってた」
結月「よかったら、会えますか?」
氷室蒼生「いい」
あまりにもあっさりで、拍子抜けするほどだった。
結月は最短の便を取り、そのままG市へ飛んだ。
四時間のフライト中、胸が落ち着かない。
彼が今も俳優かどうかもわからない。脚本もない。こんな突撃は失礼じゃないか。
氷室蒼生は撮影が終わると姿を消すタイプで、邪魔されるのを嫌うはずだったのに。
到着ロビーを出た瞬間、黒い車の前に立つ男が目に入った。
少年の青さは消え、背は高く、姿勢はまっすぐ。整った顔立ちは目を引き、表情は相変わらず冷ややかで、薄い唇は固く結ばれている。
仕立てのいいスーツが鍛えた体を縁取り、眉目の端々に漂うのは、上位者の矜持。
ゆっくり手を上げる。骨ばった長い指。驚くほど白い手首に、黒い数珠が巻かれていた。禁欲的で、どこか浮世離れした雰囲気を強めている。
ただ、その黒い瞳が彼女に落ちた瞬間――結月はそこに、複雑な色を見た気がした。
男が静かに口を開く。声は冷たく低い。
「立花先生。お久しぶりです」
「……お久しぶり、氷室蒼生」
手を交わす。掌の温度が高い。軽く包まれただけで、火を落とされたみたいに熱が肌へ広がった。
撮影以外で、異性に触れたのは何年ぶりだろう。結月はすぐ手を引いた。
視線が絡む。淡い瞳は波ひとつないようで、静かな海の底では嵐が渦巻いているみたいだった。
車内。
男は口を開かない。だが、その圧が結月の緊張をさらに煽る。
氷室蒼生は横目で、背筋を正して座る女を見る。
以前とは違う。棘を抜かれ、光を覆われ、ひどく憔悴している。
柔らかく巻いた髪が白いコートに落ちる。G市は暖かいのに、冬物の薄いウール。白い頬には細かな汗。
疲れていても、その顔は息を呑むほど美しい。
昔は刺すように眩い薔薇。今は温和な玉蘭。どちらも、目を奪う。
結月は服の裾を強く握り、言い出す機会を探している。
夕日が沈み、食事時。
氷室蒼生が言った。
「腹、減ってるか」
「いえ、機内で食べたので。私……」
「ぐぅ——」
腹が情けなく鳴った。
氷室蒼生は、彼女の頬に浮かぶ薄紅を見て、淡々と言う。
「先に何か食え」
結月は唇を噛み、気まずそうに頷いた。
「……はい」
連れて行かれたのは隠れ家的な店。だが出てきたのは懐石料理だった。
向かい合って座る。
彼は結月のコートを見て、淡く言った。
「暑くないのか」
結月は遅れて気づき、コートを脱いだ。中はシャツにジーンズ。大学生みたいな格好で、裕福な妻には見えない。
店員が持ってきたゴムで髪をきゅっと結ぶ。清潔で、潔い。
温かいグラスを両手で包み、結月は切り出した。
「突然押しかけてごめんなさい。実は……今、撮影の予定ってありますか? 私は……」
薄暗い光の中、氷室蒼生は上着を脱ぎ、白いシャツだけになる。ボタンを二つ外し、冷淡さに倦怠が混じった。
それでも、生まれつきの圧は消えない。狭い個室が彼の領域に侵食される。
暗い灯の下、彼の視線には危うい含みが増した。
彼女が指輪を外した指に、目が一瞬留まった気がした。そこには長年の指輪痕が残っている。
「……ん?」
低く、耳に絡むような声。
「何が言いたい」
