第6章 結月、ごめん。迎えに行くから、家に帰ろう?
彼女は彼を見上げた。清冽で、どこか気怠げな表情。赤い唇で乾いた唇をそっと舐め、胸の奥の不安を押し殺して口を開く。
「……もう一度、あなたと組みたいの」
その願いは、自分でも情けないほど自信がなかった。
あの作品が大ヒットしたあと、彼女と氷室蒼生の「二度目」を望む脚本は山ほど届いた。監督たちが台本を抱えて押しかけてきて――立花結月はその場で断った。
氷室蒼生は、ただ深く彼女を見て。
グラスを上げ、ひと言だけ残した。
「幸せになれ」
そんな相手に、いまさらこんな頼みを投げたら。彼はどう思うのだろう。
緊張で背中がじわりと熱くなる。汗がシャツの内側ににじみ、肌に張りついた。
氷室蒼生が淡々と言う。
「復帰するつもりなら……旦那は気にしないのか」
「旦那」という言葉が、頬を叩いたみたいに痛い。辱める意図などないのだろう。それでも、顔がひりつく。
白く細い指が、グラスを砕きそうなほど少しずつ締まっていく。
彼女は俯いたまま。彼には、彼女の目の奥が見えない。
ただ、睫毛だけが――壊れそうな蝶の羽みたいに、かすかに震えていた。
かつて太陽みたいに傲慢で眩しかった女は、いまや傷だらけの強化ガラスだ。表面には無数のひび。形だけは、どうにか保とうとしている。
誰かが一度、強く叩けば――たちまち粉々に砕け散る。
沈黙ののち、立花結月は顔を上げ、かすかに笑った。
「……私の結婚は、一言じゃ言えないの。仕事を取り戻したい」
「君の経歴なら、復帰の道はいくらでもある。なぜ俺なんだ」
しかも、こんな姿で。大きな悔しさを抱えたまま、彼の前に立っている。
あの男は、骨の髄まで彼女を愛していたはずじゃないのか。
引退のとき、彼女は幸福に満ちていた。いまは「一言じゃ言えない」だ。
立花結月は息を整え、言葉を選ぶ。
「……向こうで少し問題があって。K市の上の層では、もう仕事の入口が塞がれてる。私たちが組んだあの作品は、いまでも数字を持ってるでしょう。もしまた一緒にやれたら……立て直せるかもしれないの」
氷室蒼生が小さく笑った。
「つまり立花先生は、俺を踏み台にして戻りたいってことか」
直球だった。頬を殴られたみたいに痛い。
立花結月の表情が強張る。
「ごめんなさい。わかってる、こんなの……」
不意に男が立ち上がり、両手をテーブルについた。
長身が覆い被さる。淡い白檀の香りが強引に鼻腔へ入り込み、触覚も意識も、彼だけに支配される。
立花結月は息を呑み、首を反らして見上げた。
「立花結月」
一音ずつ名前を呼ばれ、意味がわからず見返す。
現場では冷たい男だと思っていた。だが彼女と向き合う瞬間だけ、気配が変わる。咆哮する巨浪みたいな圧で押し潰してきて、心臓の奥がざわついた。
「……なに」
「俺は謝罪はいらない。欲しいのは――」
コンコン、と控えめなノック。
店員が料理を運び込み、会話はそこで途切れた。
立花結月が顔を上げると、氷室蒼生はすでに席へ戻り、時計を指で弄んでいる。
暗い灯の下、彼の輪郭は冷たく孤高。外したボタンから鎖骨と鋭い喉仏が覗く。
禁欲の高嶺の花――のはずなのに。
この瞬間、立花結月は彼を「闇に堕ちた魔」みたいだと感じた。未知の危険が滲む。
このG市行きは、本当に正しかったのか。
考えてみれば、彼女は氷室蒼生を何も知らない。
彼は自分より二つ年下。初めて会ったときは黒いコートで、近寄りがたいほど高かった。
演技は最上ではないが、脚本への執着は凄まじく、目線ひとつまで真剣に相談してきた。彼女と監督が磨き上げたからこそ、あの作品は完成した。
いまの彼は成熟し、とくにあの目が底知れない。
立花結月が黙り込むと、男は指を曲げ、テーブルをとん、と叩いた。
「食え」
「……うん」
彼女はその場ではもう言わなかった。食事中は静かで、彼は相変わらず寡黙。皿が触れ合う音だけが、ときおり響く。
店を出ると、夜の帳が降りていた。
返事をもらえず、彼女は心が落ち着かない。コートを抱え、彼の隣を歩く。
氷室蒼生が訊く。
「G市は初めてか」
立花結月は首を振った。
「うん、初めて」
「夜景が綺麗だ」
遠くの灯りを見て、彼女は思う。いつから景色を眺める余裕を失った?
薬とだけ生き、檻みたいな家で日没と夜明けを数え、帰ってくる人を待つだけ。
立花結月は一番高いランドマークを指した。
「あそこ、百メートル以上あるって聞いた。上から見たら一番綺麗だよね」
「見たいのか」
「……頂上から見たい」
かつて捨てた景色を。
「明日にしろ。遅い。休ませる」
黒い車は明暗の街を抜け、七つ星級のホテルへ滑り込んだ。
立花結月が言いかける。
「氷室蒼生、私の提案……」
闇に紛れた男の声は淡い。
「考える」
「……うん。明日、また」
ロビーに入ると、小野秘書が待っていてカードキーを差し出した。
食事まで奢ってもらい、部屋まで用意されている。申し訳なさが募る。
エレベーターへ向かいながら、立花結月は探りを入れた。
「小野秘書。氷室蒼生って……この数年も撮影してるの?」
「さあ……あまり多くは」
――つまり、まだやっている。
広いスイートに戻り、ベッドで氷室蒼生を検索する。
痕跡が消されたみたいに、あの作品以外の情報が出ない。
今日の服装も俳優というより、商人に近い。
彼の正体は、謎だった。
スマホが震える。
氷室蒼生「明日、少し用事がある。遅めに迎えに行く。会わせたい人がいる」
立花結月「わかりました、ありがとうございます」
氷室蒼生「早く寝ろ。おやすみ」
立花結月は反射で、おやすみのスタンプを送った。
――
K市。
接待を終えた藤井修也はふらつきながら帰宅した。いつもなら立花結月が真っ先に支えてくれる。
出迎えたのは松田だった。
「藤井さん、ずいぶん飲みましたね」
藤井修也はソファに倒れ込み、ネクタイを緩め、無意識に呼ぶ。
「……結月」
松田が言った。
「奥さまは昨夜、家を出られました」
ほろ酔い加減でありながら、頭のどこかでは冷静さを保っていた。藤井修也は部屋を見回す。すべては元のままなのに、温かさがない。
まるは猫タワーの上で首を傾げ、酒臭い男を嫌そうに見下ろしている。
そうだ。結月を追い出したのは自分だ。
その夜、立花結月は眠りかけたところを電話で起こされた。
受話口から、酔った男の声。
「結月……俺が悪かった。本当に悪かった。もう揉めないで……迎えに行く。帰ろう、な?」
眠気が一気に消える。彼女は起き上がり、窓の外の見知らぬ景色を見た。異国のような寂しさ。
答えないまま、向こうで松田の声がする。
「旦那様、醒ましのスープを……」
「飲まない。結月を探しに……」
立花結月は電話を切った。涙が決壊した。
膝を抱え、指がパジャマに食い込む。
藤井修也――もう、戻れない。
翌日。
藤井修也は二日酔いで目を覚まし、頭が割れそうだった。腕の中は空っぽ。
立花結月がいない。二日も。
起き上がっても、酒を責める声はない。頭を揉む手もない。白粥もない。
部屋中に彼女の痕跡だけがあり、本人だけがいない。
藤井修也は煙草を咥え、露台で中島秘書に電話した。
「……まだホテルにいるか」
「奥さまはチェックアウトされています。昨日、G市行きの航空券を購入されたと。藤井社長……奥さま、離れるおつもりでは」
藤井修也は煙を吐き、冷たく言う。
「祖母がいる限り、K市からは離れない」
「G市で機会を探すのでは?」
「向こうに知り合いはいない。危篤の老監督が一人いるだけだ。助ける人間なんていない。気晴らしだろう」
彼は計算していた。G市で治療中の老監督は末期癌で、長くない。
立花結月はすぐ悟る。世界は広いが、彼女が休める場所は自分の隣だけだと。
追い込みすぎてはいけない。嫌悪される。
藤井修也は煙草を揉み消し、庭で立花結月が育てた薔薇を摘み、花瓶に挿した。
まるが跳び乗り、首を伸ばして花を嗅ぐ。
写真を撮り、SNSに投稿する。
「まるが母さんに会いたがってる。俺も」
最初に「いいね」を押したのは白石莉緒だった。
藤井修也はそこで初めて、白石莉緒のアイコンが以前の立花結月とまったく同じ構図だと気づく。
眉が寄る。吐き気がする。
妊娠しただけで、表に出られる存在になったとでも思っているのか。
藤井修也はアイコンを、薔薇を嗅ぐまるの写真に変えた。立花結月に、帰りを待っていると伝えるために。
次の瞬間、白石莉緒をブロックし、削除した。
――
白石莉緒は浮かれていた。立花結月を追い出した。正妻の座はもうすぐだ、と。
藤井修也の新しいアイコンは、薔薇を嗅ぐ猫。
自分のアイコンは薔薇。まるで藤井修也が口づけているのが自分みたいに見える。
禁欲で冷淡な男が、もし一度でも抱いてくれたら、キスしてくれたら――死んでもいい。
今が好機だ。夫婦喧嘩の隙に入り込める。
思い切ってメッセージを送ろうとした。
画面に赤い感嘆符。
――ブロック?
胸がざわつく。
中島秘書から電話が入った。彼女は甘い声を作って出る。
「中島さん、どうしました?」
中島秘書の声は冷徹だった。
「藤井社長から伝言だ。子どもを無事に産めば、約束の見返りは出る。余計な欲を出すなら、全部水の泡だと思え」
「中島さん、誤解です、私は……」
中島秘書は遮り、低く脅す。
「黙れ、白石莉緒。俺たちを舐めるな。奥さまは藤井社長の命だ。彼女を不快にさせたら、産んだあと地獄を見る」
「忠告しておく。藤井社長の愛を侮るな。今すぐそのクソみたいなアイコンを変えろ」
