第7章 命取りの誘惑

立花結月は、ぽかぽかとした陽射しに起こされた。大きく伸びをして、ふわりと息を吐く。

一昨日の夜は、たった二時間しか眠れなかった。だからだろうか。昨夜は後半に寝落ちしてから、朝まで一度も目が覚めなかった。

陽のぬくもりが肌を撫でる。

藤井修也の裏切りを知ってからというもの、結月の体はまるごと氷室に落ちたみたいに冷え切っていたのに——今は、ほんの少しだけ温かい。

G市は四季が春のようで、光までやさしい。

結月はSNSを開いた。修也が朝いちで、まるの写真を上げている。

アイコンも変わっていて、白石莉緒の「いいね」はもう見当たらなかった。

まるで、最初から彼女なんて存在しなかったみたいに。

けれど結月は知っている。刺は、もう心臓のいちばん柔らかいところに刺さっているのだ。

リビングのテレビがニュースを流していた。

「氷室家三男様、再び100億規模の受注! 氷室グループに大きく貢献——」

浴室のざあざあという水音が、ニュースを半分かき消す。結月は顔を洗い、軽くスキンケアを済ませた。

鏡の中の自分は、数日前までの抜け殻みたいな顔じゃない。

結月は口角を上げる。

「立花結月……やり直そう」

シャワーを浴び、バスローブを羽織ったまま生活執事に電話を入れ、衣類のクリーニングを頼んだ。

ほどなくして執事がやってきた。料理を載せたワゴンが何台も、ぞろぞろと部屋へ運び込まれる。しかも女性用の服まで用意されている。

ルームサービスじゃない。

氷室蒼生が、G市の名物を丸ごと結月のテーブルへ並べさせたのだ。

今日は食欲が戻っていた。珍しさもあって、結月は一皿一皿、丁寧に味わう。

蒼生が来たのは、思っていたよりずっと早かった。

コンコン、とノックが響く。

結月は執事だと思い込み、相手が女性だと決めつけたまま、何の警戒もなくドアを開けてしまう。

そこに立っていたのは、背の高い男だった。

スーツの上着はきれいに畳まれて手首に掛けられ、白いシャツは一番上まできっちり留めている。昨夜の気怠さは消え、凛とした清貴さだけが残っていた。

結月はさっき風呂を上がったばかりで、柔らかな髪が白いローブに落ちている。腰紐は緩く、胸元がわずかに開いていた。

蒼生の視線がそこへ落ちる。ほんの一瞬だけ。

すぐに逸らされたのに、妙に熱が残った。

それに——結月はさっきミルク系のデザートを食べて、口元を拭き忘れていた。淡い紅の唇の端に、白い跡がちょこんと残っている。

致命的な誘い。

男の目が、深く沈む。

「悪い。先に言っておくべきだったな」

蒼生はそう言うと、紳士的に背を向けた。すらりと伸びた背中。肩から腰にかけて、無駄のない強さがある。

結月は喉を鳴らし、平静を装う。

「十分待って」

十分後。

ドアを開けると、結月は白地に紫の花が咲く着物に着替えていた。裾には大輪の鸢尾花が咲き乱れている。

「氷室蒼生、準備できた」

蒼生が振り返り、結月の体の線を一瞥する。

相変わらず——生きた艶。息を呑むほどの美。

結月は歩きながら髪をまとめ、軽い調子で言った。

「送ってくれた料理、すごく美味しかった。不思議ね、老舗ってやっぱり違う。でも量が多すぎて、食べきれない」

修也は、結月が着物を好むのを知っていて、翡翠の簪をいくつも買い与えた。家ではいつも一本で髪をまとめていた。

けれど今は、手近にあった清潔な箸を一本取り、黒髪にすっと差して留める。

陽の下で、女の所作は艶やかだった。腕は細く、驚くほど白い。

柔らかそうに見えるのに、馬に飛び乗って駆け出せそうな気配がある。その落差が、男の本能を煽る。

蒼生の喉仏が、ごくりと動いた。

視線を食卓へ落とし、淡々と言う。

「迎えに来た。会わせたい人がいる」

「誰?」

「向井監督だ」

向井監督——『拙者』の監督。

結月は、自分が退いたこの数年で、向井監督が病に倒れていたことすら知らなかった。

蒼生は余計な説明をしないまま、結月を病院へ連れていく。

病室で、痩せ細った老人を見た瞬間、結月の目が熱くなった。

たった三年で、どうしてこんなに。

向井寧々は、並んで立つ二人を見上げ、老いた顔に安堵の色を浮かべた。

彼女は一冊の脚本を取り出す。

「『拙者』が当たって、続編も書いたのにさ。結月、あんたは男のために引退だって大騒ぎして……今は後悔してるだろ」

ため息が落ちる。

「結月ね。女は男のために自分を失っちゃだめ。男が好きなのは一時だよ。永遠じゃない。もしかしたら、あんたの光が好きだっただけかもしれない。鎧を脱いで普通になったとき、どれだけ好きでいられる?」

「女の時間は短い。過ぎてから悔やんでも、取り返しがつかないんだよ」

そして、脚本を結月へ差し出した。

「これが続編。あんたたちがこの物語を続けてくれるなら、ファンにも私にも、ひとつの救いだ」

結月は午後いっぱい病室に付き添い、帰りにその脚本を抱えて病院を出た。

『拙者』という爆発的な実績。向井監督の続編。

蒼生が首を縦に振ってくれさえすれば、結月はすぐにでも返り咲ける。

なのに、蒼生はまだ答えをくれない。

胸の奥が、ふわふわと落ち着かない。

エレベーターに乗ると、蒼生は迷いなく最上階のボタンを押した。

結月は訝しみながらついていく。

屋上のヘリポート。そこに、ヘリが一機、待っていた。

蒼生はそのまま乗り込もうとし、結月は思わず身構える。

「どこへ行くの?」

男は入口に立った。屋上の光は弱く、整った顔立ちは闇に沈む。見えるのは鋭い顎の線だけ。

垂れた手首には、時計がちらりと覗いていた。

その姿は、地上を見下ろす神みたいに遠い。

夜風が吹き、結月の着物の裾が揺れる。まっすぐな細い脛が覗いた。

結月は首を反らし、黒い瞳で男を睨む。頑固な小鹿みたいに、警戒を解かない。

闇の中、蒼生の声が薄く冷たい。

「……本当の頂上へ連れていく——」

一拍置いて、わずかに柔らぐ。

「夜景だ」

ヘリはG市の繁華を抜け、二つの大河が交わる地点へ向かった。

高層ビルの灯りは宝石みたいにきらめき、背後の万家灯火は銀河の星屑。

川には船が列を作り——そのとき、空を裂くような光が走った。

次の瞬間、色とりどりの花火が天を埋め尽くす。

まるで絵師が花火を絵具にして、夜に一枚の『四季山水図』を描き出したみたいに。

——綺麗。

花火はただ派手なだけじゃない。壮大で、豪奢で、胸の奥を揺さぶってくる。

結月は窓に張りつき、思わず声を上げた。

「蒼生、見て!」

蒼生が身を寄せ、一手をガラスに置く。

淡い檀香が四方から包み込み、まるで抱擁みたいだった。

吐息が耳に落ちる。

「……ああ」

低い声が耳元で弾け、知らない男の気配に包まれて、結月は反射的に一歩下がった。

だが柔らかな体は、硬い胸板にぶつかる。

はっと振り向いた瞬間、紅い唇が彼の耳朶をかすめそうになる。

至近距離。

呼吸が首筋に落ちる。浅いのに、焼けるほど熱い……。

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