第3章
妃那視点:
「離せ!」
怒鳴りながら、手も足も使って必死に暴れた。
「バシッ!」
頭の上から平手打ちが飛んできて、視界が一気に白く弾ける。頭の奥でキーンと嫌な音が鳴り響いた。
男たちはその隙に、私の両腕を後ろ手に縛り上げると、そのまま乱暴に後ろへ放り投げた。
背中が後ろの大木に思い切りぶつかり、心臓まで飛び出しそうな衝撃が走る。
痛みで声を上げる暇もなく、大きな手が私の顔を鷲掴みにした。顎をきつく持ち上げられ、無理やり顔を上げさせられる。
さっき私を殴った男が、陰険な目つきで脅してきた。
「大人しくしろ。俺たちの手に落ちたからには、逃げられると思うなよ」
「どうして、私を縛るの……」私は息を詰まらせながら言葉を絞り出す。「あんたたちなんて知らないし、恨まれる覚えもない」
男は鼻で笑った。
「俺たちにはな。けど、他の誰かにはあるだろ」
「他の誰か?」私はわざと怪訝そうに首を傾げる。心の中ではもう見当がついているくせに、あえて何も知らないふりをした。「誰のこと?」
こんな下衆な手を思いつける女なんて、一人しかいない。
祈葉。
どうせ、またあいつだ。
前に私が誘拐されたときも、黒幕は祈葉だった。
あのとき私は、これがあいつの筋書きだなんて夢にも思っていなかった。ただ素直に誘拐犯の言う通りに、両親に身代金を要求する電話をかけて「助けて」と訴えた。
けれど、両親が到着する少し前、あの連中は突然、何事もなかったかのように私を解放し、そのまま蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
傷一つない私を見て、両親は安堵より先に怒りを爆発させた。
あの誘拐は、私と祈葉が両親の気を引くために共謀して仕組んだ茶番劇だと決めつけたのだ。
もっと自分を見てほしくて、もっと構ってほしくて、そんな浅ましい真似をしたのだと。
私がどれだけ説明しても聞く耳を持たず、自分たちの妄信を頑なに押し通した。
いつだって私を信じてくれていたはずの金彦でさえ、「もう嘘はやめろ」「わがままはやめろ」と突き放した。
周りの人間は皆、私を「分別のない子供」だと決めつけ、そのぶん「聞き分けのいい祈葉」をますます可愛がるようになった。
そして私はようやく悟ったのだ。あの茶番の裏で糸を引いていたのは、祈葉だということを。
問い詰めに行ったとき、祈葉は隠そうともしなかった。全て白状した。
今回の誘拐も、間違いなく祈葉の仕業。
けど、今や両親の心は完全にあいつのものだし、金彦も望み通りあいつの側へ行った。祈葉はこれ以上、一体何が欲しくてこんなことを?
考えに沈み込んでいると、不意に頬に冷たい感触が走り、私は驚いて我に返った。
目の前の男が、なんと指先で私の顔を撫で回している。
ざらついた皮膚が擦れる微かな痛み。それが、毒蛇に巻きつかれたような嫌悪を全身に走らせる。
私は慌てて顔を背けたが、すぐさま顎を乱暴に掴まれて元に戻された。
「何をそらしてんだ?」男は冷笑し、生温い息をまともに吹きかけてくる。「今夜はたっぷり可愛がってやるよ」
下品で粗暴な言葉に、頭皮がゾワッと総毛立った。
胸の奥に、嫌な予感が黒い影となって膨れ上がる。
「……何をするつもり?」私は問うた。
男は鼻で笑い飛ばす。
「何をだと? 男と女がいて、他に何がある? 教えてやるよ。雇い主のご希望でな。お前をレイプして、その動画と写真を撮れってさ。逃げ道なんかねぇよ。おとなしく従ってりゃ、多少は痛い目見ずに済むかもしれねぇがな」
そこまで腐っているとは思わなかった。
祈葉は、私から全てを奪い取っただけでは飽き足らず、今度は私の一生を完全に壊すつもりなんだ。
悔しい。
絶対に、あいつの思い通りにはさせない。
「お願い……」私はわざと弱々しく訴えながら、背中に隠した手でそっと縄を解き始める。「私を逃がして。あの女がいくら払ったか知らないけど、私なら倍払える。父さんも母さんも金持ちなの。娘を助けるためなら、いくらだって出すわ」
「だから……だから、もう一度だけ電話させて!」
「ふざけたこと言ってんじゃねぇぞ、このアマ」
男はペシペシと私の頬を叩きながら吐き捨てた。
「さっき助けを求めて電話してたの、全部聞いてたんだよ。お前の親、全然信じちゃいなかっただろうが」
当然だ。あの人たちが信じるはずがないし、助けに来るなんて期待もしていない。
これはただの時間稼ぎにすぎない。
さっき、もうとっくにスマホで警察には通報済みだ。
背中の縄もあと少し。解けさえすれば、袖の中に忍ばせておいた護身用のメスが役に立つ。
私はいかにも弱い女を演じながら、なおも縋った。
「私はあの人たちの本当の娘よ。見捨てるなんてありえないわ。お願い、もう一度だけチャンスをちょうだい。電話させて、ね?」
「ダメだね」男はギラついた目で私を舐め回す。「俺はまだ、お前みたいな上玉とやったことがねぇんだよ」
言うが早いか、待ちきれないといった様子で私にのしかかり、顔を鷲掴みにしてキスを奪おうとしてきた。
吐き気が喉元までこみ上げる。
私は膝を思い切り跳ね上げ、男の股間めがけて叩き込んだ。
完璧に決まった。耳元で、豚の断末魔みたいな悲鳴が響く。
男は両手で股間を押さえ、痛みに耐えきれず地面に転げ落ちた。
「このクソアマが……今夜は絶対にぶっ殺してやる!」歯ぎしりしながら怒鳴り散らす。「やれ! てめぇら、こいつの服を全部剥げ!」
私は手の中のメスを高く掲げ、鬼のような形相で吠えた。
「死にたい奴からかかってきなさい!」
「行けよ! お前ら何人いると思ってんだ。女一人にビビってんじゃねぇ!」
男たちはハッと我に返ったように顔を見合わせ、ヘラヘラ笑いながらじりじりと距離を詰めてくる。
私はメスを握り締め、全神経を尖らせた。最初に飛びかかってきた奴の心臓を、迷いなく一突きにしてやる。
静まり返った夜。秒針ひとつ進むたび、空気がどんどん重くなっていく。
「おい」
気だるげな男の声が、不意に闇を裂いた。
「大勢の男で一人の美人を寄ってたかって襲うなんてよ。紳士の風上にも置けねぇな」
地面から起き上がろうとしていたチンピラが、辺りを見回す。
「誰だ? 誰が喋ってんだよ」
「てめぇのじいちゃんだよ」
今度ははっきりと、頭上の木の上から声が落ちてきた。
見上げると、黒い影がひらりと飛び降り、そのまま私の正面に着地する。すっと立ち上がると、私を影の中にすっぽりと隠した。
男だった。
背が高い。革のジャケットを着ていて、引き締まった均整の取れた体つき。やたらと脚が長い。手の中で拳銃を器用にくるくると回して遊んでいる。
不意にその手が止まり、銃をしっかりと握り直すと、リーダー格のチンピラに銃口をまっすぐ向けた。
「お、お前……!」チンピラは声を震わせた。「俺たちと恨みはねぇだろ。余計なことに首突っ込むのはやめとけって」
男は短く笑う。
「残念。俺、忠告ってやつを聞いたためしがなくてな」
そう言うなり、銃身ではなく銃把でチンピラの頭を思い切り殴りつけた。
チンピラが痛みに絶叫し、他の連中が一斉に突進してくる。
私もメスを構え、いつでも動けるように身構えた。
けれど、この妙な男の実力は、私の想像をはるかに超えていた。
次々と飛びかかるチンピラたちを、彼は片っ端から地面に叩き伏せていく。
五分も経たないうちに、最後の一人も彼の蹴り一発で吹き飛ばされた。
「あーあ」
首をゴキゴキ鳴らしてから振り返り、男は私に向かってウインクをよこした。
「疲れたわ、美人ちゃん。こういうときってさ、熱いキスの一つくらいくれてもいいんじゃない?」
男の瞳は、妙に色気のある深い色をしている。整った顔立ちは冷たさを秘めていて、笑っている今でさえ、どこか放っておけない危険な匂いをまとっている。
私は唇をぎゅっと結び、何も答えず、彼の横を通り抜けて出口へと歩き出した。
「おいおい、美人ちゃん」
驚いたような、けれど面白がっている響きの声が背中に飛んできた。
「今の、俺がお前を助けたんだぜ? ありがとうの一言もなし?」
無視して足を速める。
彼は舌打ちを一つすると、数歩で追いついてきて、正面から行く手を塞いだ。
仕方なく顔を上げると、彼は肩をすくめもせず、じかに視線を受け止めてきた。
「助けてくれなんて、一言も頼んでない」
冷ややかに言い捨てる。
「恩知らずだな」彼は軽く笑った。
こんな無意味なやり取りに付き合うほど暇じゃない。脇をすり抜けて行こうとした瞬間、彼の手が私の手首をガシッと掴んだ。
反射的に振りほどこうとしたが、その手首はあまりにもびくともしない。力を込めている様子もないのに。
苛立ちを隠さず睨みつけると、男は片眉を上げた。
「夜遅くに一人でうろつくもんじゃないよ。さっきみたいなのにまた会ったら、俺が心配で頭にくる。どーしても散歩したいなら付き合ってやるさ。今どき、俺みたいなイイ男はそうはいないぜ?」
「本当にうるさい男ね」
私は心底うんざりした声で尋ねた。
「何が目的?」
この男がどこから湧いて出たのか、皆目見当がつかない。祈葉の仕掛けた罠の一部かもしれないと疑ってしまう。
祈葉は狡猾だ。油断などできない。
男は少し身を屈めてきて、私に覆いかぶさるような姿勢になった。距離が詰まるごとに、心臓がいやでも早く打ち始める。
あと二センチというところで、ぴたりと止まり、唇の端を上げた。
「家まで送ってやりたいだけ」
温かい息が頬にかかり、その熱が一瞬にして全身を駆け巡る。ビリッと電気が走ったみたいに、肌の表面が総毛立ち、足に力が入らなくなった。
私は思わず後ずさる。最悪なことに、足が砂のくぼみに取られ、そのまま仰向けに転びそうになった。
「危ない!」
男は私を支えようと手を伸ばしたが、逆に私に引っ張られて一緒に倒れ込んだ。
彼の体が私の上にのしかかり、その手が、よりにもよって私の胸を掴んだ。
この変態が。
「その汚い手、どけろ!」
羞恥と怒りが一気にこみ上げ、私は怒鳴った。
「殺すわよ!」
男は今気づいたかのように慌てて両手を上げ、降参のポーズを取る。無実を訴えるみたいに肩をすくめた。
「わざとじゃねぇっての」
「もういい!」
私は遮った。
「さっさとどきなさい!」
この体勢は近すぎる。太腿越しに伝わる筋肉の硬さと力強さまで伝わってきて、余計に腹立たしい。
「照れてんのか」
男は納得したように笑った。
「耳まで真っ赤だぜ」
「黙れ」
「はいはい、お嬢さんの仰せのままに」
彼がのそりと立ち上がり、私も慌てて起き上がって、服についた砂を乱暴に払い落とした。
「意外だな……」
また口を開いたので、私は睨みつける。
男は悪戯っぽく眉を上げた。
「その細い体のどこに隠してたんだか。胸は結構あるじゃないか」
瞬間、顔から火が出そうなほど熱くなる。
この死ぬほど下品な変態。
「死ね!」
拳を握りしめ、その目元めがけてぶん殴った。視界の端に、ようやく到着した警官たちの姿が飛び込んでくる。
私は大声で叫んだ。
「助けて! ここに痴漢がいるわ!」
