第8章
金彦視点:
「怖がらなくていいよ。すぐ救急車、呼ぶから」
俺は祈叶をなだめるように言った。
けれど祈叶は、かすかに首を振る。
「いいの……それより、妃那を追いかけてあげて」
真っ白になった顔を見れば、本当はいつものように、そばに残って看病してやるべきなんだと分かっている。
なのに、どういうわけか――今日は、その足がすぐには動かなかった。
さっき妃那が背中を向けていったときの表情が、あまりにも決然としていたからだ。
胸の奥で、いやなざわめきが生まれる。
あれを追いかけないでいたら、このまま本当に、二度と彼女を失ってしまうんじゃないか――そんな予感がした。
キュッと、心臓をつままれたような痛み。
焦りと、どうしていいか分からない感覚が、じわじわと膨れ上がっていく。
妃那と付き合い始めた頃、俺たちは互いに約束した。軽々しく「別れる」なんて言葉は口にしないって。
この数年、祈叶への償いのせいで、妃那との間に何度も衝突が起きた。
高熱で意識がもうろうとしていた祈叶を落ち着かせるため、俺は一度だけ、やむなく彼女にキスをしたこともある。
あのとき妃那は、目を真っ赤にして怒っていた。それでも一か月口をきかなかっただけで、「別れよう」なんて言葉は、一度も言わなかった。
だからこそ、今回初めて妃那が別れを切り出したことで、俺は危機感を覚えた。
もしかして、祈叶とは本気で距離を置くべきなのかもしれない。
……それでも、どこかで俺は納得がいかなかった。
だって俺は、妃那の代わりに償っているだけだ。
胸の中で渦巻く苛立ちを押し殺しながら、俺は祈叶に詫びる。
「……分かった、祈叶。気遣ってくれてありがとな。妃那とちゃんと話をつけたら、すぐ戻ってきてお前を看るから」
「大丈夫だよ」
祈叶は素直に頷いた。顔は紙みたいに白いくせに、無理やり笑みまで作ってみせる。
「今は妹の方が大事だよ。あの子、今は頭に血が上ってるでしょ? ちゃんと追いかけてあげて。優しく説明してあげて。こんなに長く付き合ってきたのに、別れちゃうなんて、もったいないもん」
「……まだ子どもなんだよ、妃那ちゃんは。すぐ感情的になって、簡単に別れ話なんかしちゃうし……見てるこっちが金彦のこと可哀想になっちゃう」
祈叶は、俺が今まで出会った誰よりも、気遣いができて、優しくて、俺のことを分かってくれる女だ。
自分だってこんな体なのに、それでも真っ先に気にするのは、俺の気持ちだ。
それに比べて妃那は、俺に当たってばかりだ。
二人を並べてしまえば、どうしたって力が抜けるし、何とも言えない倦怠感と嫌気が胸に残る。
もし妃那が、祈叶の半分でも物分かりがよかったら。どれだけ楽だったろう。
自然と、妃那への不満が浮かぶ。
特に、ますます血の気の引いていく祈叶の横顔を見ると――急に、妃那を追いかける気持ちがしぼんでしまった。
結局、いつも俺が甘やかすから、妃那はつけ上がるんじゃないか。
この辺でわざと放っておいて、頭を冷やさせるべきなのかもしれない。
「早く行って」
祈叶は咳き込みながら、それでも俺を安心させようとするように嘘をつく。
「私は本当に平気。……結局、悪いのは全部私なんだもん。あの時、私が怪我なんかしなければ……求婚だって、邪魔することなかったのに……全部、私が情けないせいで」
「それは違うだろ」
思わず眉をひそめていた。
「そんなふうに自分を責めるなよ。祈叶のせいじゃない」
「ううん……私が、妹に誤解させちゃったから。ごめんね……けほっ、けほ……」
祈叶はそう言って、ぽろぽろと涙を落とした。苦しそうに唇を押さえながら、静かに泣いている。
胸が締め付けられる。
恵麗が、痛ましげに祈叶の背をさすった。
「祈叶、うちの娘……そんなに無理したら、お母さん本当に心配よ」
祈叶はしばらく激しく咳き込み、真っ白だった顔が逆に赤黒く染まる。
力尽きたように恵麗の肩に体を預け、かすかに笑った。
「大丈夫……ちょっと胸が苦しいだけだから」
「祈叶の具合が悪いわ。金彦、あなたはここに残って看病してあげて」
恵麗が当然のように言い切る。
「今、妃那を追いかけても無駄よ。あの子の性格、あなたが一番分かってるでしょう? 今は怒っているから、行ったところで喧嘩になるだけ。妃那の気が済んでから、ゆっくり話しなさい」
一郎も頷いた。
「おばさんの言うとおりだ。最悪の場合は、あとで俺たちも一緒に説明しに行く。求婚の日に、お前がわざと置き去りにしたわけじゃないと分かれば、きっと納得するさ。あの子だって何年もお前を想ってきたんだ。そう簡単に嫌いになれるもんか」
「私は女だし、あの子の母親よ。あの子のことが一番分かってる。さっきの言葉なんて、全部ただの売り言葉買い言葉よ」
祈叶が唇をぎゅっと結び、恐る恐る俺を見上げる。
「……やっぱり、ママの言うとおりかも。妃那ちゃん、怒りが収まれば戻ってくるよ。いつもそうだもん。あの子が金彦のこと、どれだけ好きかなんて、みんな知ってる。ずっと金彦と結婚したがってたし」
胸の中に積もっていた不安は、そんな言葉で少しずつ溶けていった。
確かに、みんなの言うとおりだ。
傍から見ているからこそ、妃那の俺への気持ちはよく分かるのだろう。
当事者である俺が、一番よく分かっている。
妃那の俺への愛情は、俺の何よりの自信だ。
あいつが俺と別れるはずがない。
俺と別れたら、あいつは生きていけない。
今回の一件も、どうせ求婚を台無しにした俺への当てつけだ。
だったら、日を改めて、きちんとやり直してやればいい。
今度こそ盛大なプロポーズをしてやれば、機嫌も直るだろう。
「よし、行こう」
決心がつくと、俺は祈叶を抱き上げた。
「病院へ連れていく」
祈叶は少し驚いたように目を見開く。
「妹の方は……本当に追いかけなくていいの?」
「みんなの言うとおりだ。まずはあいつの頭を冷やさないとな。今は祈叶、お前が一番大事だ」
ますます血の気の引いていく祈叶の顔を見つめると、罪悪感が一層強くなる。
「それに、お前の狭心症だって……全部、俺のせいだからな」
三年前、俺と妃那と祈叶の三人で、ボートで海に出かけたことがある。
まさかの事故で、俺は海に落ちてしまい、運悪く足がつった。
俺の異変に最初に気づいて飛び込んできたのは祈叶だった。
彼女は必死に俺を岸まで運び、そのせいで長時間溺水し、狭心症を患うようになった。
妃那のためにも、そして俺自身のためにも、祈叶に対して責任がある。放り出すわけにはいかない。
「金彦、あなたを助けたのは、私がそうしたかったからだよ。恩を売るつもりなんてなかった。いつまでも自分を責めるんだったら、もう口きいてあげないからね」
祈叶は、つくづく優しすぎる。
「分かった。もうこの話はやめよう。とにかく、まず病院だ」
俺がそう言うと、祈叶は俺の首筋に頬を寄せ、耳元でささやいた。
「本当に大丈夫だから。自分の身体のことは、自分が一番よく分かるもん。ちょっと休めば治るから、病院はやめよう? 家に帰りたい」
吐息混じりの声が、やけに甘い匂いを伴って耳の奥に入り込んでくる。
耳の中がくすぐったく痺れ、全身が一瞬で固まった。頭の中まで真っ白になる。
そのときだった。
警察署長の勝康が、こちらに向かってくるのが見えた。
一郎と恵麗がそろって会釈する。
勝康署長は俺たちを見るなり、問いかけてきた。
「妃那さんはどこにいる?」
「妃那を、ご存じなんですか?」
一郎が眉をひそめる。
「まさかまた何かやらかしたんじゃ……あいつは本当に、手のかかる娘で」
勝康署長は、突然険しい顔つきになり、一郎を叱りつけた。
「いい加減なことを言うな! 父親のくせに、事情も聞かず最初から娘を責めるとはどういう了見だ!」
一郎は世間的には成功者だ。面と向かってここまで手厳しく説教されることなど、そうそうなかったのだろう。瞬く間に顔色を失った。
恵麗が慌てて口を挟む。
「署長、私たち親が適当なことを言っているわけじゃないんです。妃那は昔から、すぐ問題を起こして、嘘ばかりつくんです。私たちを心配させてばかりで……例えば、昨夜も電話をかけてきて、誰かにつけられているなんて嘘を――」
「嘘なんかじゃない。昨夜、あの子は本当に尾けられていた」
勝康署長は鼻で笑った。
「不良の集団に後をつけられて、危うく暴行されるところだった。もしも途中で――」
そこで一瞬言葉を切り、それから続ける。
「……幸い、親切な人間に助けられたおかげで、最悪の事態は免れたがな。それよりお前たちだ。昨日、こちらから何度も家族に電話をかけたのに、誰も出なかった」
「昨日、お前たちは一体何をしていた?」
