第4章

「早くホテルにチェックインの確認を入れろ!」

「あら、あなた。言い忘れていたけれど、予約はキャンセルしたわ」

 私は今日の天気を話題にするような気軽さで、淡々と言った。

「キャンセル? じゃあ俺たちはどこに泊まるんだ?」

「それは、あなたが考えるべきことよ」

 電話の向こうで二秒の沈黙が落ち、隼人が深く息を吸い込む音がした。

「里奈、また荷造りに手間取って飛行機に乗り遅れたのか? 機嫌が悪いのは分かるが、それはお前の不手際だろう。いいか、今夜は適当な場所で凌ぐから、お前はすぐに新しい便を手配して、明日のスイートを確保しろ。それから新しい旅程を送ってこい……」

 彼はまだ、これが私の単なる癇癪だと思っているのだ。少し優しくしてやれば、私が過去と同じように、尻尾を振ってすべてを完璧に手配し直すだろうと信じ込んでいる。

 その時、藤原がワインボトルを持って近づき、低い声で尋ねた。

「もう一杯どうだ、里奈?」

 男の声は、はっきりと受話器の向こうに届いた。

 瞬間、隼人が激昂した。

「誰だそれは? 男か? 里奈! お前、誰と一緒にいるんだ?!」

 説明するのも面倒で、私は一方的に電話を切った。

 本当の嵐は、深夜に訪れた。

 セントレジスのオーシャンビュースイートで、波の音を聞きながらスパを受けていると、スマホが再び狂ったように震え出した。

 切ろうかと思ったが、考え直して出ることにした。

 通話ボタンを押した瞬間、隼人の気違いじみた怒号が飛び込んできた。前置きも何もなく、単刀直入だった。

「カードを止めたのか?!」

「それは私のカードよ、隼人」

「頭がおかしくなったのか! 俺たちは今レストランだぞ! ウェイターがこっちを睨んでる! 会計は六十万円だ! 俺たちに食い逃げでもさせる気か? さっさと送金しろ! 今すぐだ!」

「六十万円? 随分と豪勢な食事だったのね」私は冷ややかに言った。

「御託はいいから送金しろ! それから、荷物はどうなってる?」彼は崩壊寸前のようだった。

「空港には預け入れの記録がないと言われたぞ! 俺たちはこの服しか着てないんだ、外はマイナス二十度だぞ!」

「もちろん、預け入れの記録なんてないわよ」

「どういう意味だ? 家に忘れてきたのか?」

「忘れてないわ」彼には見えないけれど、私は微笑んだ。

「家の片付け業者に『処分』させたの」

「処分……どういう意味だ?」

「つまりね、午後二時のゴミ収集車が全部回収していったってこと。今頃はプレスされてゴミの塊になり、埋立地に向かっている最中じゃないかしら」

 電話の向こうは、死んだような静寂に包まれた。

 直後、背景で悲鳴が上がった。美紀子の発狂したような泣き声、そして翔太が私を殺してやると喚き散らす罵声。

「里奈、貴様……なんて悪毒な女だ……」隼人の声は震えていた。

「よくもそんなことが……」

 ――プツン。

 私は通話を切った。

 数分後、再び画面が明るくなった。

 知らない番号からのショートメッセージだ。

 写真は高級レストランのテーブルで、そこに高価な紳士用腕時計が置かれていた。

 それは私が隼人の誕生日に贈ったものだった。

 写真の下にはこう添えられていた。

『カードは使えなくなったけど、隼人が私に惨めな思いをさせまいと、その時計をそのまま支配人に渡してくれたの。おかげで今夜は個室で、最高級のワインを楽しめるわ。どうせ貴女からのプレゼントだし、私の支払いに充てるのがお似合いだって言ってたわ』

 その写真を見て、私は思わず吹き出しそうになった。

 彼女はこれを勝利だと思っているのだ。

 私に向かって自慢しているのだ。

「ほら、あんたが金を出して買った資産が、今は私の虚栄心を満たすために切り売りされているわよ」と。

 だが彼女は知らない。その時計が、隼人の持っている換金できる最後の資産だということを。

 私は返信しなかった。

 ゆっくりとネットバンキングのアプリを開き、その時計の保険証書と購入履歴を探し出し、スクリーンショットを撮って顧問弁護士に送信した。

 添えたメッセージは簡潔な一文のみ。

『贈与財産の返還請求訴訟を、直ちに起こして』

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