チャプター 1
「スカーレット、出番だ」
呼び出しを受けたとき、スカーレット・コリンズは担当アーティストのひとりが起こしたスキャンダル対応の真っ最中だった。
そのアーティストはようやく仕事が軌道に乗りはじめたところなのに、スキャンダルの渦中で交際を公表すると言って聞かなかった。
スカーレットは怒りで煮えくり返り、相手を落ち着かせるのに少し時間をかけた。衝動的に動くな、と言い含めて。
スマートフォンをしまい、振り返る。セバスチャン・ブラックがバーにもたれて、彼女を待っていた。
今日はブラック家の末っ子であるセバスチャンとの婚約パーティーの日だった。
女遊びで名の知れたブラック家の御曹司が、フェニックス・シティ随一の美女と婚約した。騒いでいるのはゴシップ紙だけではない。セバスチャンの友人たちも同じくらい衝撃を受けていた。
婚約パーティーのあとも、数人が「このまま祝おう」とブラック邸で二次会をすることになった。
だが外は暑すぎて、結局みんな屋内でビリヤードを始めた。
婚約がどれほど本気なのか、そしてスカーレットがどんな魅力でセバスチャンを虜にしたのか――彼らはそれを確かめたかったのだ。
スカーレットは髪をかき上げてセバスチャンに近づいた。背伸びして耳元へ顔を寄せ、ささやく。
「……やり方、わかんない」
ささやきというわりに、周囲に十分聞こえる声量だった。
案の定、野次が飛ぶ。「ほら、スカーレットに教えてやれよ! もたもたしてるの見てるとこっちが落ち着かねえ」
セバスチャンは笑って悪態をついた。「うるせえな!」
襟元のボタンをいくつか外したシャツが、気取らない雰囲気を作っている。彼は眉を上げてスカーレットを見た。「もちろん、教えるさ」
見せかけの婚約。体裁のためだけ。
今のスカーレットにとって、これが最重要の取引だった。
セバスチャンはスカーレットの背後に立った。婚約用の身体に沿うドレスが曲線を際立たせている。
彼はキューの握り方を直し、さらにその手に自分の手を重ねた。
距離が近ければ、触れ合いは避けられない。
少しばかり――いや、かなり親密に見える。
セバスチャンが身を引こうとしたそのとき、扉が唐突に開き、全員の視線がそちらへ向いた。
背の高い男が入ってきた。仕立ての完璧なスーツ。薄暗い照明が彼の輪郭を金色に縁取っている。
息をのむほど整った顔立ちで、鋭い目元がわずかに細められている。何かを値踏みするように。
スカーレットはその顔を見た瞬間、心臓が跳ねた。
どうして、ここに――?
セバスチャンが驚きに満ちた声を上げる。「叔父さん、戻ってたのか!」
「悪い。便が遅れてな。お前の婚約パーティー、間に合わなかった」男はさらりと答えた。視線がスカーレットに留まり、それから何事もなかったようにソファへ歩いていく。
セバスチャンは紹介をしていないことに気づき、スカーレットの手を引いた。「俺の婚約者だ。スカーレット。スカーレット、こっちは俺の叔父さん」
――アレクサンダー・キング。
スカーレットは心の中で名を補った。
不意の再会に、スカーレットは対応しきれなかった。まさかアレクサンダーがセバスチャンの親族だなんて。知っていたら、この取引に首を縦には振らなかった。
金はまた稼げる。だがアレクサンダーは、視界に入れるだけでさえ耐えがたい相手だ。
なにしろ。
彼女はアレクサンダーを二年間、囲っていたのだから。
そして「飽きた」と一方的に関係を終わらせたのも、彼女だった。
複雑な因縁に、スカーレットのこめかみがずきりと痛んだ。
彼女が黙っているのを見て、セバスチャンが取り繕う。「叔父さん、スカーレットはちょっと人見知りでさ」
人見知り?
アレクサンダーが眉を上げた。「そうか? さっきは、そうは見えなかったが」
ビリヤードのことを言っているのだろう。
スカーレットは奥歯が軋むのを感じた。まだ根に持っているの?
別れ際は気持ちのいいものではなかった。それでもスカーレットとしては、できる限りのことはしたつもりだった。
三年も経ったというのに、なぜ彼はまだ元の愛人のことを気にしているのだろう。
スカーレットはアレクサンダーと真正面からぶつかりたくはなかった。だが、黙ってもいられなかった。
彼女は甘い笑みを浮かべて言った。「セバスチャン、アレクサンダーがそんなに古風な人だなんて、知らなかったわ」
ざわり、と周囲が息をのむ。
スカーレットは正気じゃない――!
相手はアレクサンダーだ。
あのアレクサンダーを、皮肉る度胸があるなんて。
言い返したところで、胸がすっとするどころか、苛立ちと息苦しさが募るばかりだった。
髪をかき上げ、力なく言う。「外で少し、空気を吸ってくる」
セバスチャンはほっとした。偽の婚約者とアレクサンダーがそのまま取っ組み合いにでもなったら、と気が気ではなかったのだ。
初対面からすでに険悪で、セバスチャンには状況がのみこめない。どちらかが席を外すのが最善だった。
スカーレットが出ていくや否や、セバスチャンの携帯が鳴った。相手はエマ・ローソン。
何を言われたのか、通話を切るなりセバスチャンは慌ただしく二階へ駆け上がっていった。
友人たちは意味ありげな視線を交わし、理由を察する。
彼らはエマのことをよく知っていた。セバスチャンが最近付き合い始めた、有名人だ。二人は今まさに蜜月だった。
スカーレットはセバスチャンにとって、それほど重要ではないのだろう。
二階へ向かう前に、セバスチャンはふと思い出したように一同を見渡し、アレクサンダーに声をかけた。
「アレクサンダー叔父さん、急用ができた。スカーレットが帰りたがったら、誰かに家まで送らせてくれ」
アレクサンダーは黙ったままだ。
拒みはしない。ただ、ウイスキーのグラスを見つめている。
誰かが口を挟む。「婚約パーティーの直後にスカーレットを置いていくなんて、まずいんじゃないか? 父親に知れたら……」
別の男が鼻で笑う。「セバスチャンを知らないのか? あいつはその場の刺激が欲しいだけだよ」
アレクサンダーはその会話を聞きながら、セバスチャンの十年に及ぶ女遊びの遍歴を素早くつなぎ合わせていった。
彼女は――こんな男が好きなのか?
アレクサンダーはウイスキーを一気にあおり、立ち上がった。
外では藤の花が満開で、波のように垂れ下がっていた。
スカーレットは窓辺にもたれ、長い金髪を風に揺らしていた。細い腰の線がふと覗く。
花を一輪摘み、深く息を吸ってから、二階の化粧室へ向かう。
鏡の中の自分を見つめながら、今すぐここを出なければ、とスカーレットは思った。
階段へ引き返そうとした瞬間、大きな手が突然腰をつかみ、近くの部屋へ引きずり込まれた。
強盗――?
薄暗い室内で顔は見えない。反射的に、口を塞ぐ手に噛みついた。
容赦なく、深く。相手がくぐもった呻きを漏らす。
二人とも動きを止めた。
スカーレットはその声に聞き覚えがあった。
気づかないふりをしたが、相手はもう一度言った。「スカーレット……こんなに時間が経っても、まだ俺を憎んでいるのか」
「ごめんなさい。あなただとは思わなかった。でも、あの状況なら誰だって抵抗するわ」
アレクサンダーはスカーレットを見下ろし、嘲るように言った。「本当に?」
言い返そうとした、そのとき。壁の向こうから音がした。男が女をあやすような、甘い声と気配。
スカーレットは居心地の悪さに身を強張らせた。相手が誰だか、わかってしまったからだ。
ついさっき婚約したばかりのフィアンセ、セバスチャン。
そして、彼の本当の恋人、エマ。
つまりアレクサンダーは、これを聞かせるために彼女をここへ連れてきたのか?
「何がしたいの?」
アレクサンダーの声が低く落ちる。「お前を助ける。そしてブラック家に嫁がせないためだ。そもそも、お前みたいな女は……」
スカーレットは心の中でため息をついた。やはり彼は自分を嫌い、ブラック家に入るのを見たくないのだ。
これは自分とセバスチャンの取引だ。結婚するつもりなど最初からない。だが、それをアレクサンダーに言う気もなかった。契約は守る。
「それがどうしたの」
「セバスチャンは、私の婚約者よ」
向けられる視線が、ふいに熱を帯びるのを感じた。
「……本気で、あいつが好きなのか?」
