チャプター 3
スカーレットが帰宅したころには、空はもうすっかり暗くなっていた。
車の中でうつらうつらしていたが、停車して腕時計を確かめた途端、ぱちりと目が冴える。
六時にパティ・ルイスと会う約束だったのに、もう一時間も遅れている!
スカーレットは運転手に慌ただしく別れを告げ、ドレスの裾を持ち上げてエレベーターへ駆け込んだ。
家に着くと、ドアを開けたのはトレイシー・ブラウンだった。
まだ三歳なのに、大人のふりをして、自分の腕のスマートウォッチを指さし、母親の口調をまねる。
「いったい何時だと思ってるの?時間の感覚、ぜんぜんないんだから」
スカーレットはこらえきれず笑ってしまった。
バッグを置き、トレイシーを抱き上げ、そのまま中へ運ぶ。
戻ってきたのを見て、パティが声をかけた。「コリンズさん、ほかに用がなければ、私はもう上がりますね」
「ありがとう、パティ。トレイシーの面倒を見てくれて」スカーレットは心から言った。「今日はちょっと……めちゃくちゃで。月末にお給料、倍にするから」
パティは辞退しようとしたが、スカーレットが譲らなかった。
パティが帰ると、スカーレットはソファに崩れ落ちた。トレイシーは膝からするりと降り、水の入ったグラスを持ってくる。「はい、お水」
胸がじんと熱くなり、スカーレットはトレイシーを引き寄せて額をこつんと合わせた。「トレイシー、私の娘にならない?ママのことなんて忘れちゃおう」
トレイシーは逃げようとしたが、抜け出せない。
幼くても、スカーレットの機嫌が良くないことくらいは察する。だから合わせてやることにした。「……いいよ」
ちょうどそのとき、モイラからビデオ通話が入った。
モイラ・ブラウンは最近失恋し、気晴らしにフェニックス・シティを離れることにした。トレイシーを置いて、ソルスティスへ向かったのだ。
スカーレットが出ると、向こうはまだ明るい。モイラはスフィンクスの前に立ち、でかいサングラスで大げさにポーズを決めていた。「ねえ、美人。会いたかった?」
「気持ち悪い。最近、交流サイトで話題になってる脂ぎった男たちと同じくらい」スカーレットが返す。
モイラは即座に言い返した。「あいつらが私みたいな顔だったら、叩かれたりしないわよ!」
トレイシーが甘い声で割り込み、母親を見下すように言う。「スカーレットがママのこと捨てたんだよ。帰ってこないで。わたし、スカーレットのことママって呼ぶから」
スカーレットはおかしくてたまらない。「じゃあ、これから私をママって呼びなさい」
トレイシーははしゃいだ。「やったー!ママが二人になった!」
モイラはサングラスを外し、真顔で尋ねた。「どうしたの?元気ないじゃない」
スカーレットは鼻で笑う。「疲れただけ」
アレクサンダーのことは話すつもりがなかった。モイラとは長い付き合いなのに、アレクサンダーの名を口にしたことは一度もない。
アレクサンダーとの関係は、触れたくない傷跡みたいなものだ。別れてから、誰にも話さなかった。
モイラとの通話を終えたころ、トレイシーはスカーレットの肩にもたれたまま眠りに落ちていた。
スカーレットはトレイシーを抱いて寝室へ運び、布団をかけてやる。
外では雷がごろごろ鳴り、雨の気配がした。スカーレットは急いで窓を閉め、カーテンを引き、トレイシーの隣に横になる。
真夜中、スカーレットははっと目を覚ました。
腕の中のトレイシーが落ち着かず、頬が赤い。
額に触れた瞬間、熱に驚いて息をのむ。
トレイシーが熱を出していた。
子どものか弱い身体には、一刻を争う医療措置が必要だった。
時刻は午前二時。外では嵐が荒れ狂っている。
配車アプリに表示される空車はわずかで、彼女が必死に料金をつり上げても、誰ひとりとして依頼を受けてくれなかった。
知り合いの小児科医に何人も電話をかけたが、誰も出ない。
スカーレットは追い詰められていた。レインコートを探し出してトレイシーをくるみ、階下へ駆け下りた。
家は人里離れた場所ではない。通りがかった車が助けてくれるかもしれない。
二階で待ち続けるよりはましだった。
腕の中のトレイシーは苦しそうで、ときおり小さな声を漏らす。
けれど通りは空っぽで、スカーレットはトレイシーを抱えたまま病院まで走って行けるわけもなかった。
涙がこぼれそうになりながら、行き場もなく彷徨う姿は、迷える魂そのものだった。
そのとき、黒いマイバッハが彼女の前に止まり、窓が下りる。現れたのは、冷ややかで洗練されたアレクサンダーの横顔だった。
ふざけたような視線は、彼女の腕の子どもを見た瞬間、すっと色を変えた。彼は前方に目をやり、何か難しい決断を下すように沈黙し、それから低く言った。「乗れ」
その瞬間、スカーレットに、信念だの矜持だのにこだわっている余裕はなかった。
トレイシーを抱えたまま車に乗り込み、感情を抑えながら言う。「病院へ」
アレクサンダーは答えず、ナビを立ち上げて車を出した。
彼は、バックミラー越しにどうしてもスカーレットを見てしまう。
彼女は寝間着にスリッパのまま、着替える時間などなかったのが一目でわかった。
腕の中の子からそっとレインコートを外し、抱き直して背中を優しくとんとんと叩いている。
スカーレットが顔を上げ、ミラーの中で視線が交わった。アレクサンダーは反射的に目をそらしたが、彼女の赤く腫れた目が焼き付いた。
アレクサンダーは、自分がみじめに思えた。
海外での三年、彼はスカーレットを忘れられなかった。帰国して、話をしようと思った。だが昼間には親族と婚約し、夜には子どもがいる。
三年離れている間に、子どもはもうすぐ三歳?
あの時間は、いったい何だったというのか。
――スカーレット、お前は残酷だ。
胸の奥に情動が詰まって吐き出せず、彼女の家までつけて、外で馬鹿みたいに待っていた自分が滑稽でならない。
その苛立ちの元凶が、いま自分の車の中で、子どものことで涙ぐみながら取り乱している。
苛立った。とりわけ、スカーレットの不安げな目を見ると、なおさらだ。
腕を掴んで、彼だけを見させてやりたかった。「心ってものがあるのか? たった三年で、どうして他の男と子どもなんか作れる?」
アレクサンダーは、見捨てて立ち去ることもできた。
だが、できなかった。
熱にうなされてトレイシーがくすんと泣き、スカーレットはあやす。「泣かないで、トレイシー。病院に連れて行くから」
トレイシーの声はか細い。「ママ……」
アレクサンダーの最後の望みが、音を立てて崩れた。
彼は心の中で自分を呪い、アクセルを踏み込んだ。
車は病院の入り口で止まった。
スカーレットがドアを開けようとしたとき、アレクサンダーが何かを差し出す。
トレイシーを避けるようにして、それをスカーレットの膝へ置いた。「これを着ろ」
彼のスーツの上着だった。
スカーレットは、自分の寝間着が確かに薄いことに気づいた。彼の親切を拒まず、小さく囁く。「ありがとう」
アレクサンダーは軽く息を吐き、ためらってから車を降り、スカーレットの腕から子どもを受け取った。「俺も行く」
