第1章

 両手はナイロンロープで背中にきつく縛られていた。ざらついた縄が手首を何度も擦り、ついには皮が裂け、じわりと血が滲む。

「今の自分の姿、鏡で見てみなよ、早苗。ほんと哀れだな」

 正司が、見下ろすように私の前に立っていた。かつては信じられないほど優しかった整った顔には、いまや剥き出しの軽蔑しかない。

「花野グループは破産保護の申請を出した。おまえのご自慢の家も、いまじゃすっからかんだ——一円も残っちゃいない。借金まみれで、神輿から落ちたお嬢さまを、俺が妻にすると思ったか?」

 嘲るように正司が笑う。

「結婚にまとまった信託資産を持ち込めないなら、おまえに残った価値は一つだけだ。ここで身体を使って、借りを返す。それが唯一の使い道だよ。信じろよ、Elysiumみたいな一流の地下クラブなら、T市の大物やらトップの連中がうじゃうじゃいる。昔は高嶺の花だった花野家の令嬢を引きずり下ろす味、喜んで試したがるだろうな」

「正司……この恥知らず!」私は縄を引きちぎろうと必死にもがいた。

「父の死も、会社の倒産も——全部あんたが仕組んだんでしょ! 地獄に落ちるよ!」

 パァンッ!

 乾いた音が部屋に弾け、右頬に熱が走る。

「正司に向かって、その口のきき方はないでしょ」

 絵理奈が私の前に歩み出た。

 かつて、いちばん親しかった友人。なのに今は当然みたいに、私の婚約者の腕に絡みついている。

「ねえ、正司。彼女の顔って危険すぎない?」絵理奈は正司に視線を投げた。「

その顔がある限り、男はいくらでも寄ってくる。もしここで億万長者にでも気に入られて、耳元で可哀想なお話を泣きながら吹き込んだら……損するのは私たち。だから——」

 冷たい笑み。

「いっそ、その顔を壊しちゃえばいい。最初から男の幻想を断ち切っておけば、後腐れもないでしょ」

 正司の表情が、すっと沈んだ。

 私がどんな繋がりと人脈を持っていたか——彼はよく知っている。もし私が立ち上がりでもしたら、二人を地の果てまで追い詰める。皮を剥いで骨を抜くぐらいじゃ足りない。

 正司はポケットから折り畳みナイフを取り出し、「カチッ」と開いた。

 ひやりとした刃が頸動脈に触れた瞬間、全身の産毛が逆立つ。

 だめ。ここで死ぬわけにはいかない。地獄に落ちるとしても、この外道どもを道連れにしてからだ。

「やめて……正司、お願い!」憎しみを無理やり喉の奥へ押し込み、目に涙を溜める。

「私、復讐なんて考えたことない! 覚えてるでしょ? あなたと婚約するために、私は圭也を迷わず捨てた……! 追いかけてきたお坊ちゃんたちだって、全員断った! 全部、あなたのためだったの!」

 堰を切った涙が頬を伝い、メイクはぐしゃぐしゃに崩れていく。

「あなたはもう、私を壊した。今の私には何もない。愛した男は、あなたが最初で最後……だから、殺さないで。殺さないなら、何でもする。お願い、正司……」

 私が、かつて自分から突き放した『権力者の息子たち』の話を持ち出した途端、正司の傷ついた自尊心が、満たされるみたいに膨れ上がった。手元がわずかに止まる。

「見たか、絵理奈」正司は親指で私の首筋の血を拭った。

「あんなに高慢だった小さな孔雀が、今じゃ俺の足元で命乞いする雌犬だ」

 ナイフを畳み、正司は金庫の前へ行く。取り出したのは金属製の足枷。容赦なく、私の左足首に嵌めた。

 ピッ。

 軽い電子音と同時にロックが閉じ、眩い赤いランプが点滅を始める。

「大人しくしてたご褒美に、役にも立たない命だけは残してやる」正司は顎を掴み、無理やり顔を上げさせた。

「軍用クラスの監視装置だ。指定範囲を一歩でも出たら、電流で即終了——灰になる。今のおまえは蟻以下だ。いつ踏み潰すかは、俺が決める」

「わかりました……大人しくします」私は狂ったように頷いた。

 生きる。

 生きてさえいれば——今日受けた屈辱を、百倍にして返せる。

 そのとき、正司のスマホが震えた。彼は部屋の端に移動して通話に出る。

「俺だ」

 声色が一瞬でへりくだる。

「埠頭の方はどうだ? いいか——今夜の接待は、絶対にミスるな。航運の配分だけの話じゃない。あの国際の『黄金ルート』を開けるかどうかが決まる」

 向こうが何か言うと、正司は何度も頷く。

「今すぐ、プレジデンシャルスイートの警備を再確認しろ。今夜の客は、T市で一番の大人物だ。圭也に楽しんでもらえれば、欲しいものは全部手に入る」

 私は、はっと顔を上げた。

 圭也。

 正司がまだ何か喋っている。でも、もう一言も入ってこない。頭の中に残ったのは、その名前だけだった。

 夏原圭也。

 貧しい家の出なのに、聡明で、誇り高くて、頑固なくらいまっすぐだった少年——家を救うために、私が自分の手で残酷に捨てた、元恋人。

 そして今、彼は正司の口から「大人物」と呼ばれる存在になっている。

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