第3章

 正司が、喉元に食い込ませていた指をゆっくりと離した。

 私は椅子の背にもたれかかるようにして崩れ落ち、むせ返るほど咳き込んだ。胸の奥が、火であぶられたみたいにひりひり痛む。正司は無言のまま、しばらくそこに立っている。

「いいだろう、早苗。今回は信じる」正司はスーツの襟を整えた。

「絵理奈、こいつを中腹の別荘へ連れて行け。きれいにしてやれ。こんな幽霊みたいな格好で出てこられたら、俺の計画が台無しだ。俺は俺で港へ行って、夏原先生に会わなきゃならない」

 正司は踵を返して足早に去り、地下室に残ったのは私と絵理奈だけになった。

 絵理奈は私の髪を鷲づかみにし、椅子から無理やり引きずり上げる。

「行くわよ、花野お嬢様」耳元へ顔を寄せ、氷みたいに冷たい声で囁いた。

「正司があんたの戯言を本気で信じると思う? あんたみたいな女――生まれた瞬間から信託だの何だのが用意されて、何もしなくても持ち上げられて――それでまだ逆転できるとか、よく思えるよね」

 絵理奈は私を地下室の脇の扉へ乱暴に突き飛ばした。

「夏原圭也先生に、また色目でも使うつもり?」いきなり背中の腰骨あたりに、硬く冷たいものが押し当てられる。銃口だ。

「さっきの電話、聞いてなかったの? 先生がいちばん嫌うのは、あんたみたいな――甘やかされた金持ちのお嬢さん。世界が自分中心に回ると思ってるタイプ。そんなあんたが恥もなくすがりついたら、気持ち悪くて一生女が無理になるかもね」

「絵理奈、何をする気?」私は必死に声を整えた。

「何を、って? あんたを地獄に直送するの」絵理奈は背中をぐいと押す。

「足首のロープ、外して歩け。安心しなよ――この森であんたの死体が腐っても、正司ですらどこへ消えたか知りようがない」

 倒れた枝をまたいだ瞬間、私はわざと足をもつれさせ、地面へ倒れ込んだ。

「立て! 私の前で死んだフリすんじゃない!」絵理奈が銃口で肩を乱暴につつく。

 私は身を丸めたまま、闇に紛れて手探りし、指先で欠けた石を掴んだ。刃物みたいに鋭い縁。握りしめ、わざと泣きじゃくる声を作る。

「足、ひねった……絵理奈、お願い……昔の、友だちだったこと……」

「友だち? ふざけんな!」絵理奈が甲高く、狂ったように笑う。

「今――死ね!」

 パンッ!

 銃声が森の中で破裂した。弾丸が頬をかすめ、すぐ脇の土へ突き刺さる。

「きゃっ!」私は悲鳴を上げ、狼狽した音色にしてみせた。

 絵理奈は腹を抱えて笑う。

「見てよ、そのザマ! 地面に跪いて命乞い、惨めな虫みたい!」興奮のまま、さらに二発――「パン! パン!」――木の幹に弾が食い込み、木屑がばさっと散った。

「偉そうにしてた早苗はどこ? 漏らした? 花野様?」

 彼女が私をいたぶる快感に溺れている隙に、私は鋸みたいにギザついた石で、手首を縛るナイロンロープを夢中でこすった。

 絵理奈が銃を上げ、決定的な一発を撃とうとした、その瞬間。

 私は跳ね起き、頭から彼女の腹へ体当たりした。

「この――!」絵理奈が悲鳴を上げ、私ともつれ合って地面へ転がる。手の銃が弾き飛ばされた。

 私は飛びつくようにして銃を掴み、振り向きざまに彼女へ向ける。

「地獄へ落ちろ、絵理奈!」引き金を絞った。

 カチリ。

 スライドが後退したまま噛み込み、びくともしない。

 最悪だ。弾倉は、とっくに空になっている。

 絵理奈は地面に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。口元に冷えた笑みを貼りつけたまま、ブーツの内側から狩猟刀を抜く。一歩、また一歩。刃を前にして迫ってくる。

「神様もあんたの味方じゃなかったみたいね、早苗」

 私は役に立たない銃を投げ捨て、身を翻して冷杉の森の奥へ必死に駆けた。

 枝をばきばき押しのけて森を抜け――その瞬間、私は凍りついた。

 前に道がない。

 断崖だった。崖下では、夜の底で真っ黒な海面がうねっている。

 逃げ場がない。

 絶望が極まった、そのとき。湾をゆっくり離れていく豪華なクルーザーが目に入った。上のデッキに、背の高い男が立っている。濃い色のスーツ。風と闇を隔てても、一目でわかった。黒い髪、広い肩。

 圭也。

 ――この世界で俺がいちばん我慢ならないのは、甘やかされた金持ちの女だ。自分が誰より上だと思ってるようなやつ。

 電話越しの言葉が、頭の中でよみがえる。

「逃げなよ、早苗。どうして逃げないの?」絵理奈がナイフを握り、狂った鬼みたいに笑いながら詰めてくる。

 私は崖の縁に立った。目の前には刃。足元には底なしの闇。

 でも、私はこんな場所で死なない。絵理奈の手で死ぬなんて、なおさら。

 足下の、果てしなく深い黒い海を一度だけ見下ろし、目を閉じて身を投げた。

 短い無重力。身体がまっすぐ虚空へ落ちていく。

 ――そして、目を開けた。

 唸る突風の中、クルーザーの黒髪の男が、はっと顔を上げるのが見えた。刃のような視線が夜を裂き、私が落ちていく崖の一帯を、逃さず射抜く。

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