第4章

圭也視点

 ヨットのエンジンが、桟橋まわりの汚れた海水を低く震わせ、いままさに離岸しようとしていた。その瞬間、頭に残っていたのはひとつだけ。

 ――この場所が、心底嫌いだ。

 川澤正司。救いようのないバカが、香水臭い女を何人か並べ、さらに破産した元令嬢まで添えれば、夏原グループが国際航路の案件で「見逃して」くれると本気で思っている。

 T市の人間が、下半身で商談を決めるとでも?

「夏原先生! 待って! 夏原様!」

 プライベート桟橋で、正司が転げるようにこちらへ駆け寄ってくる。

 警護が即座に前へ出て、彼をぴたりと遮った。

「電話で十分に伝えたはずだ、川澤先生」冷えた声で告げる。

「川澤グループは、T市で求められる最低限のプロの水準にすら届いていない。交渉を女衒まがいの手口と勘違いしている男と、取引する気はない」

「ち、違います! お願いします、あと一言だけ、説明させてください!」正司は震える手で袖口を使い、額の冷や汗を乱暴に拭った。

「誤解です! あなたがいちばん嫌うのは、ああいう思い上がった金持ちのお嬢様だって……! 誓って言います、あなたを侮辱するつもりなんて、これっぽっちも!」

 鼻で笑い、船から叩き落とせと合図を出そうとした――そのとき、視界の端が、遠くの異様な光景を捉えた。

 崖だ。

 さっき確かに、あそこから人影が海へ落ちたのが見えた。

「向こうで何が起きてる?」目を細める。

「まさか、このご自慢の桟橋は違法な色と金の取引だけじゃないと言うつもりか。メニューに『殺し』まで追加されてた、なんて冗談は御免だ」

 正司が僕の視線を追う。顔色が一瞬、紙みたいに白くなり――次の瞬間には、残忍な笑みをねじ込んだ。

「……ああ、あれですか?」すぐに言い繕う。

「身の程知らずの、くたばって当然のクズですよ」媚びるように声が弾む。

「夏原先生、あなた、甘やかされた小娘が大嫌いだって言ってましたよね? さっき言った『特別なデザート』ってのが、破産してるくせに俺を騙して結婚しようとした元お嬢様でしてね。いま部下が代わりに片づけてます。お詫びだと思ってくださいよ」

 ウイスキーのグラスを握る指に、ぎり、と力が入った。

「……片づける?」声が、危険なほど低くなる。

「説明しろ」

「はっ。あいつの家なんか、とっくに破産保護の申請済みです。それでも自分は偉いって顔で、ふんぞり返ってやがる」正司は喋れば喋るほど気分が良くなるらしい。

「父親に甘やかされて育ったんでしょうね。上東区の巣みたいな場所で、世界は自分中心に回って当然って思い込んでる。あのツラが良けりゃ、権力者を釣って上流に戻れるとでも? 笑わせる。山の裏の林に連れてって、始末させました。たぶん逃げようとして、勝手に崖から落ちたんでしょうよ」

 そして――正司が吐いた名前が、氷の針みたいに背骨を駆け上がり、頭のてっぺんまで刺さった。

「花野早苗。あんなゴミ、生きてたって空気の無駄――」

 ガシャン!

 クリスタルのグラスが手から滑り落ち、砕け散った。

 早苗。

 病室で、僕にキスをした女。

 そして、僕が何もかも失ったとき、残った自尊心まで泥に踏みつけ、別の男の腕に収まっていった女。

 五年。五年まるごと憎み続けた相手。

 その五年の間、眠れない夜ごとに、一秒だって本当には忘れられなかった相手。

 そのとき、海風の向きがふっと変わった。ヨットの探照灯が海面をなぞる。

 そこに――波間に、赤いリボンがぷかりと浮き沈みしているのが見えた。

 縁は擦り切れ、色も褪せている。

 五年前。身に残っていた最後の100円で、屋台で買った安物だ。僕は不器用に、それを彼女の金髪に結びつけた。そんなもの、とっくにゴミ箱へ捨てたはずだと思っていた。けれど、彼女は持っていた。

 そのリボンがいま、海に浮いている。

「……お前、彼女に何をした」僕は正司の襟首を掴み上げた。

「触ったのか?」

「な、夏原先生――げほっ――正気ですか!」正司は青ざめて暴れる。

「だって、あなたが自分で、そういう女が大嫌いだって――」

 拳が、彼の顔面をまっすぐ撃ち抜いた。

「髪の毛一本でも欠けてみろ。お前も、川澤グループも、まとめて沈める」

 スーツの上着を投げ捨てる。背後で部下たちが悲鳴みたいに叫ぶのを、完全に無視した。

「社長! 危険です! 水が冷たすぎます!」

 何を言っているのか、耳に入らない。

 見えているのは、赤いリボンだけだ。

 そして、崖から落ちた早苗の残像が、頭の中で何度も何度も焼きつくように反復し、消えない。

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