第4章
その日の放課後、中村正樹は私の手から箒を受け取り、穏やかだが揺るぎない口調で言った。
「少し座って休んでいてください」
夕暮れの陽光が窓から差し込み、教室全体を蜂蜜色に染め上げていた。
私は、正樹が真剣に掃除をする横顔を見つめる。陽の光が、彼の痩せた輪郭を縁取っていた。
「どうしていつも自分から日直の仕事をしてるの?」
と、私は不思議に思って尋ねた。
正樹は動きを止め、少し躊躇してから、ほとんど聞こえないほどの低い声で答えた。
「担任の先生がお金をくれるんです。一回千円」
「えっ? 何それ、悪徳すぎない!」
私は思わず飛び上がった。
「こんなに広い教室を掃除して千円ぽっちだなんて、うちのお父さんよりケチだよ!」
正樹は俯いて掃除を続けたが、彼の口角が微かに上がっているのが見えた。
陽光の下で、彼の睫毛が長い影を落とす。いつもは静かなその瞳が、今はきらりと光を宿していた。
日直の仕事が終わると、正樹は一冊のノートを私に差し出した。
「今日の数学の解法、裏に全部メモしておきました。夜、もう一度復習できます」
「ありがとう!」
私は丁寧に書かれたノートをめくりながら、ふと閃いた。
「正樹、一緒にバイト先まで行ってもいい? 君が働いてるところ、見てみたいな」
彼は一瞬ためらった後、静かに断った。
「名門校の授業は進むのが速い。みんな夜の時間を使って復習します。君は転校してきたばかりだから、遅れない方がいい」
彼の視線が微妙に揺れたのに気づいた。私がちゃんと勉強しないと、桜井健太に責められるのではないかと心配しているようだった。
「……そっか」
私は不承不承に頷いたが、心の中ではすでにある決意を固めていた。
夜、私は正樹が毎日通るであろうルートを辿り、上野の古い商店街にある和菓子屋を見つけ出した。
木製の引き戸を開けると、鈴がちりんと軽やかな音を立てる。
店内は古風で趣があり、木製のカウンターと伝統的な装飾が温かな雰囲気を醸し出していた。
半透明の衝立の向こうに、中村正樹が伝統的な店員の装束を身につけ、一心不乱に精巧な和菓子を作っている姿が見えた。
正樹は私に気づくと、手にしていた和菓子作りの道具を半秒ほど止めた。
「どうしてここが?」
「君に会いに来たんだよ!」
私は笑いながらカウンターに近づいた。
店内の隅にある休憩スペースで、痩せた顔立ちの女性が和菓子の包装に紐を結んでいた。
彼女は私に顔を向け、微笑みながら尋ねた。
「正樹のクラスメイトさん?」
「こんにちは! 桜井智香子です。正樹の隣の席で、静岡から転校してきたんです」
私は元気よく自己紹介した。
顔色は青白かったが、その目元は正樹とどこか似ていて、特に漆黒の瞳は星屑を湛えているかのようだった。
「ようこそ、智香子さん」
彼女は立ち上がろうとする。
「お菓子を用意させて……」
「母さん、座って休んでて。僕がやるから」
正樹は慌てて彼女を制し、私の方を向いた。
「少し待っていてください」
彼は手際よく材料を準備する。小豆餡、抹茶……彼の指が器用に形を整えていく。
彼が私のために作ってくれているのが、店で最も高級な季節限定の和菓子で、一客二千百円もすることに私は気づいた。
彼は完成した和菓子を伝統的な和紙の懐紙の上に置いた。
「どうぞ、召し上がってみてください」
正樹は温かいお茶を淹れてくれながら、柔らかな声で言った。
私は恐る恐る一口目を頬張る。甘すぎず、それでいて奥深い味わいが舌の上で一瞬にして花開いた。
「すっごく美味しい!」
私は感嘆の声を上げたが、その瞬間、名状しがたい感情がこみ上げてきた。
「正樹、どうして君の和菓子は、お母さんを思い出させるんだろう? 小さい頃、お母さんがいつも故郷のお菓子を用意してくれて……」
「すみません、家に帰りたくなるような気持ちにさせるつもりは……」
正樹はあたふたと謝った。
私は首を振り、伝統的な頭巾を巻いた目の前の少年を見つめる。彼の漆黒の深い瞳は、何かに集中している時、格別に人を惹きつける。それは、幼い頃の記憶にある「佐藤宗樹」とは全くの別人だった。
記憶の中の「佐藤宗樹」は、綺麗だが高慢な白鳥のようだった。しかし、目の前の正樹は、風雨の中でも凛と立つ花のようだ。
この数年間、彼の生活はきっと大変だったのだろう。それでも、これほどの集中力とひたむきさを保ち続けている。
「君の腕は本当にすごいよ。絶対に成功する。私、信じてる」
私は心からそう言った。
正樹は呆然としていた。褒められることに慣れていないようだった。
私は確信していた。どんなことをするにせよ、これほどの中村正樹なら、将来きっと成功するだろうと。
