第1章
「宮原さん。再検査の結果が出ました。数値はすべて正常です。これで妊娠の準備に入れますよ」
検査結果の用紙を握りしめた宮原知子は、こみ上げるものを抑えきれず、指先がかすかに震えた。
三年前――不慮の事故のあと、「子宮内膜が損傷している。回復には長い治療が必要だ」と告げられた。
それから知子は病院を渡り歩き、数え切れないほどのホルモン注射を打った。体型は崩れ、鏡を見るたび胸が沈む。それでも、ようやく。もう一度、子どもを望めるところまで来た。
知子はスマホを取り出し、この知らせを夫の長川輝夫に伝えようとした。
だが駐車場へ出た瞬間、足が止まる。
長川輝夫が、見知らぬ女と車の中にいた。
背筋の通った体。整った顔立ち。運転席からわずかに身を乗り出し、助手席の若い娘に何かを囁いている。
娘は米白のニットのロングワンピース。艶のある長い髪を肩に流し、輝夫を見上げる瞳はきらきらしていた。距離が、妙に近い。
――見覚えがある。
知子は、長川家の書斎に飾られていた写真でその娘を見たことがあった。
使用人の話では、輝夫が長年援助している大学生で、数年前に海外へ留学させ、妹のように可愛がっていたのだという。
最近、帰国したのだろう。
葉山歩美が輝夫の耳元で何か囁き、そのまま頬にキスしようとした。
輝夫は顔をそらして避けたが、怒る気配はない。むしろ指先で歩美の丸い頬を軽くつまみ、甘やかな笑みを浮かべた。
兄妹?
そうは見えない。
どう見ても、熱に浮かされた恋人同士だ。
知子の胃がぐらりと裏返る。ホルモン注射の副作用なのか、それとも別の何かなのか。とにかく吐き気がひどい。
反射的に背を向けた、そのとき――
「宮原知子。どうしてここにいる」
背後から輝夫の声。
振り向くと、彼が車を降りてきたところだった。
知子は検査結果を握りしめ、声を絞り出す。
「病院で検査を……」
歩美も降りてきた。柔らかな笑みを貼りつけながら、知子のむくんだ顔と崩れた体型に視線を落とし、好奇心いっぱいの声で言う。
「ねえ、お兄ちゃん。このおばさん、知り合い?」
――おばさん。
その一言で、知子の眉がわずかに寄った。まだ二十六だ。相手はせいぜい二十そこそこ。なのに「おばさん」と呼ばれる。
知子は自分の身体を見下ろした。ホルモン治療で肉がつき、肌はくすみ、目尻には細かな皺。かつて澄んでいた瞳さえ、光を失っている。
一方で歩美は若く、美しく、生命力に満ちていた。並び立つだけで、知子は影のように霞む。
――「おばさん」と言われても、仕方がないのかもしれない。
治療前の自分だって綺麗だった。言い寄ってくる人もいた。
だが治療が始まってから、彼女は別人になった。身体も、心も。
輝夫の顔色が沈む。歩美を一瞥し、知子へ淡々と言い放った。
「検査が終わったなら早く帰れ。外でうろつくな」
知子はうつむき、小さく答えた。
「……うん。すぐ帰る」
背を向けた耳に、歩美の甘い声が追いかけてくる。
「輝夫、結局あの人、誰なの?」
輝夫の返事は聞こえなかった。いや、聞きたくもなかった。
今の知子は、とにかくここから逃げ出したかった。
彼女と輝夫の結婚は、事故から始まった。
ある酒会の夜、酔った勢いで長年の想いを告げたとき、輝夫は冷たい目で知子を見ただけで、何も言わなかった。
その直後――ホテルの天井がきしみ、輝夫の頭上のシャンデリアが落ちてきた。
知子は考える暇もなく彼に飛びつき、盾になった。
だが腹部を金属のワイヤーが貫いた。息が詰まるほどの激痛。
病院に運ばれ、「今後、妊娠は難しいかもしれない」と告げられた。
輝夫は罪悪感から、知子に求婚した。
長川家は不本意だったが、世間体もあり、結局は受け入れるしかなかった。
知子は幼い頃に孤児となり、伯父伯母の家に預けられて育った。冷たい視線にさらされ、不幸ばかりの幼少期だった。
だからこそ、ずっと子どもが欲しかった。自分が持てなかった幸せな家庭を、子どもと一緒に作りたかった。
長川家に嫁いでから、知子は仕事を辞め、治療にすべてを注いだ。妊娠の準備のために。
最初の頃、輝夫は優しかった。市内でも最良の医師を呼び、栄養士までつけて体を整えさせた。
だがある日、噂が回り始めた。
あの事故は、知子が仕組んだものだ――と。
本人でさえ、ワイヤーが子宮まで貫くとは思っていなかっただろう。自業自得だ、と。
どれだけ否定しても、輝夫の態度は温くも冷たくもないまま変わらない。
やがて二人は別々の部屋で眠るようになり、輝夫が家に帰る回数も減っていった。
妊娠できるようになれば、関係は変わる。そう信じていた。
なのに、今日見た光景。
知子は自嘲気味に笑った。
自分の努力は、結局ただの独りよがりだったのだ。
夕方、別荘に戻ると、姑の周防礼美がリビングの十字架の前に跪き、黙祷していた。
扉の音に気づいても顔を上げず、平然と言う。
「帰ったのね。着替えなさい。あとで連れて行く場所がある」
「どこへ……?」知子は戸惑った。
「教会よ」礼美は淡々と言い放つ。「あなたの身体が一向に良くならないのは、罪が深いから。主に会って赦しを乞うの」
胸が沈んでいく。
罪?
何の罪を懺悔しろというのか。
子どもが授からない――ただそれだけで、神に対して負い目があるとでも?
知子は宗教を信じていない。説明しようと口を開く。
「お義母さん、今日再検査をして、医師が……」
「医者が何をわかるの!」礼美は遮った。「三年よ? 何度病院へ行った? 結果はどうだった? 私はあなたのためにしてるの。あなたも子どもが欲しいんでしょう」
知子は拳を握りしめ、指の関節が白くなる。
「……わかりました。着替えて行きます」
反論はやめた。瞼を伏せ、黙って二階へ上がる。
礼美が連れて行ったのは、西区にある小さな教会だった。
中にいた牧師は五十前後。聖書を抱え、穏やかな表情の奥に、抜け目のない光を宿している。
小岩牧師は知子を一瞥し、ゆっくり言った。
「子を授かるのは神の祝福。授かれぬことは、確かに人生における大きな痛みでしょう」
礼美がすかさず頷く。
「そうでしょう、小岩牧師。この子、神さまのご機嫌を損ねるようなことをしたんじゃないでしょうか。長川家は代々、熱心に信仰しているのです」
小岩牧師は知子に前へ出るよう促し、聖像の前に立たせた。
「さあ、目を閉じて。心を開きなさい。共に祈り、主にあなたの罪を赦していただきましょう」
不本意だったが、知子は従った。そっと目を閉じる。
耳元で延々と続く、小岩牧師と礼美の祈り。
滑稽だった。
まるで自分が裁かれる罪人になったみたいで。
