第4章
宮原知子の視線が、葉山歩美のぷるんと艶のある頬をなぞり、最後に、身にまとった最新のシャネルのセットアップで止まった。
頭の先から爪先まで、ぜんぶ高級品。
――どこが「援助が必要な大学生」なんだか。
「……何か用?」
宮原知子の声は淡々としていて、感情の起伏が見えない。
ここで歩美に時間を使うつもりはなかった。ようやく落ち着かせた心を、また掻き乱されたくもない。
そんな必要は、どこにもない。
葉山歩美はその距離を読み取れないのか、むしろ親しげに寄ってくる。瞳には、幼さを装った好奇心が浮かんでいた。
長川輝夫が彼女の面倒を見るようになったその日から、歩美は彼の私生活を――とくに「妻」の存在を、ずっと観察してきたのだ。
夫婦仲はどうなのか。
その女はどれほどみじめで、どれほど無力なのか。
「ねえ、おばさん。ここに仕事探しに来たの? ここって、どの会社もハードル高いよね……」
歩美は口元を手で隠し、くすりと笑う。品定めするように宮原知子を上下に眺め回してから、軽い調子で続けた。
「ほんとに困ってるなら、長川の上の人に言ってあげてもいいよ。受付がいちばん敷居低いし。でも……あなたは無理かも」
言外の意味くらい、宮原知子だってわかる。
これはただの誇示だ。自分が長川輝夫と近いことを見せつけ、ついでに「正妻」である宮原知子を踏みつける。
宮原知子は歩美を見つめ、ふっと、笑いそうになった。
――自分を見ているみたいで。
三年前の彼女も、こうだった。
業界の頂に立ち、あらゆる人の視線を集めていた。
若くて、綺麗で、自信に満ちていて。
骨の髄まで負けず嫌いで、上から下まで、強さが滲んでいた。
それが今は「長川の奥さん」だ。鏡を見るたび、嫌でも現実を突きつけられる。
ホルモンのせいで体は重くなり、肌の奥から皺がじわじわ増えていく。まだ二十代なのに、妙に老けて見える。
卑屈にならなかったと言えば嘘になる。
三年――それだけで、いろんなものが変わる。
「いいえ。そういう台詞は、本当に長川家に嫁いでから言えば」
宮原知子は歩美を避け、そのままエレベーターのほうへ歩く。余計な視線すらくれてやらない。
ここまで徹底して無視され、歩美の笑みが一瞬だけ固まった。
臃腫で、疲れ切って見える女が、自分にこんな態度を取るとは思っていなかったのだろう。
宮原知子が長川家に戻ったころには、外はすっかり暗くなっていた。
玄関に入った瞬間、長川輝夫の冷えた顔とぶつかる。
彼はソファに座り、灰皿には吸い殻が数本、投げ捨てられたままになっていた。
灯りもつけず、薄闇の中で輪郭だけが硬く張り詰めている。
宮原知子の姿を見て、長川輝夫は煙を揉み消し、冷たく目を上げた。
「岸江グループに何しに行った」
宮原知子は靴を脱ぎながら、話を広げる気もなく答える。
「別に」
長川輝夫の声が低く沈む。
「二度言わせるな」
「私が何をしようと、あなたに関係あるの?」
その淡々とした返しが、彼には挑発にしか見えなかった。
長川輝夫はソファから勢いよく立ち上がり、数歩で距離を詰める。高い背丈が落とす影と圧が、息苦しいほど迫ってきた。
「宮原知子。調子に乗るな」
掴まれた手首が強引に引き寄せられ、壁へ押しつけられる。ぐっと押し潰されるような威圧に、宮原知子の喉がひゅっと鳴った。
長川輝夫は、怒りを抱えると寝室で容赦がない。
まるで衝動を制御できないみたいに、彼女を痛みでねじ伏せた。
どれだけ泣いても、どれだけ謝っても、耳に入っていないようだった。
けれど、別々に眠るようになってから、彼はもう彼女に触れない。
欲を抑える薬を使おうが、外で別の女を抱こうが、宮原知子にだけは――指一本触れなかった。
宮原知子は顔を上げる。
「長川輝夫。あなたに、私を縛る資格があるの?」
「あなたにとって私は何? 手段を選ばず嫁いできた策士? それとも、迷惑しかかけないおばさん?」
「便利に突き放せる、尊厳も自由も持たない付属品?」
長川輝夫は眉を寄せ、彼女の唐突な感情の爆発を、うんざりした目で見下ろした。
「今日はいったい何の発作だ」
「あなたの中では、これが『発作』なのね」
宮原知子は笑う。乾いて、ひび割れた笑い方だった。
「そうよ。私、発作みたいにおかしくなったの。あなたが私を愛してるなんて信じたことも、夫の情けを欲しがったことも、この牢屋みたいな長川家で、三年も青春を溶かしたことも」
「長川輝夫、私はとっくにおかしくなってた」
「それで?」
長川輝夫は口元を歪め、冷ややかな嘲りを浮かべる。
「全部、お前が仕組んだことだろ」
宮原知子の瞳を、失望がかすめた。
鼓動はずっと前から痛みに慣れすぎて、もう痺れている。
この男にとって彼女は、必死にすがって嫁いできた、愚かで安い女。
ただそれだけなのだ。
「この結果が気に入らないのか? 後悔してるのか?」
長川輝夫は吐き捨てるように続けた。
「鏡を見ろ、宮原知子。今のお前が、昔の宮原様だと思ってるのか」
「注目を引くための駆け引きはやめろ。俺は暇じゃない」
――これは、彼女が気を引くために騒いでいるだけ。
彼はそう決めつけている。
宮原知子はその薄情な横顔を見つめ、体から力が抜けていくのを感じた。
愛していない相手に、言葉を尽くすほど無駄なことはない。
「……離婚しましょう」
二度目のその言葉は、前よりずっと静かだった。
長川輝夫の表情が、ようやく揺れる。
彼は宮原知子を凝視した。どこかに綻びがないか、嘘の気配がないか――探るように。
「もう一回言え」
「離婚よ」
宮原知子は一語ずつ、噛んで吐く。
「改めて離婚届を用意する。あなたは、早くサインして」
長川輝夫は黙り込んだ。
目の前にいるのは、確かに見慣れた顔だ。
なのに、ひどく知らない女に見える。
いつからだろう。
宮原知子の瞳から、光が消えたのは。
昔みたいに媚びることもない。
膝元に寄り、甘えることもない。
宮原知子は、宮原知子でなくなってしまったみたいだった。
胸の奥が、かすかに揺れた。
本人も気づかないほど微細な――焦りにも似たものが。
だが長川輝夫は、その意味不明な感情をすぐに押し殺す。
「寝言は寝て言え」
冷笑を落とし、いつもの無表情に戻った。
「この世に、都合よく引き返せる道がいくつもあると思うな」
「もう騒ぐな。俺には俺の都合がある」
言い捨てると、彼はあえて無関心を証明するみたいに話題を切り替えた。
「歩美が海外から戻ったばかりで、食べ物が合わないらしい。今夜、こっちに来る。消化のいいものを用意しろ。胃腸が弱い」
宮原知子の返事を待つことすらせず、踵を返して階段を上る。
広く冷えたリビングに、彼女だけが置き去りになった。
宮原知子はその場から動けない。
窓の外の闇が濃くなり、彼女の影をゆっくり飲み込んでいく。
台所へ行くことも、命令に従うこともせず、宮原知子は静かに向きを変え、自分の部屋へ戻った。
その部屋で、彼女はもう二年近く一人で眠っている。
今夜はじめて思う。
この冷え切った静けさが、むしろ救いだ、と。
午後6時、葉山歩美がやって来た。
手には包装の整ったギフトボックス。周防礼美への土産らしい。
「輝夫お兄さん、来たよ」
若さが弾ける笑顔のまま、歩美は靴を脱ぐ動きまで慣れきっている。まるで、ここが自分の家だと言わんばかりに。
「若様は書斎にいらっしゃいます」使用人が恭しく答えた。
歩美は頷き、がらんとしたダイニングへ目を走らせる。テーブルにはいつもの花瓶があるだけで、食器一つ出ていない。
わざとらしく目を丸くする。
「あれ? 今日は食事しないの? てっきり……」
言い終える前に、長川輝夫が階段を下りてきた。
灰色のカシミヤのホームウェアに着替えている。歩美を見た瞬間、彼の顔から陰りが少しだけ薄れた。
「……あいつは?」
「お部屋にいらっしゃいます」使用人が答える。
