第5章
テーブルの上がすっからかんだとわかると、長川輝夫は眉をひそめた。――あの女、何ひとつ用意していない。
彼女が自分の指示に逆らったのは、これが初めてだった。
「輝夫兄さん」
葉山歩美がすぐに駆け寄り、手にしていたギフトボックスを差し出す。
「周防おばさんに、私が選んだ美容サプリを持ってきたの。エイジングケアにすごくいいって。きっと気に入ってくれるよ」
「気が利くな」
長川輝夫は受け取り、玄関脇のキャビネットに無造作に置いた。
アンニがそばで立ち尽くし、居心地悪そうに小声で報告する。
「若様……奥さん、ずっと部屋から出ていません」
長川輝夫の表情が、すっと冷えた。
宮原知子に夕食の支度をさせるよう言ったのに、平然と無視したということだ。
――この女、本気で俺に歯向かうつもりか。
空気の変化を察し、葉山歩美が慌てて取り繕うように笑う。
「大丈夫だよ、輝夫兄さん。じゃあ外で食べない? 近くにね、新しくできた隠れ家的なお店が――」
彼女は見たかったのだ。長川輝夫が自分の目の前で、宮原知子の立場をきちんと認めるのかどうか。
だが長川輝夫は冷たい顔のまま、葉山歩美の提案に乗らない。彼女に宮原知子のことを説明する気配もなかった。
「料理人に急がせろ」
「かしこまりました」
そのときになって、宮原知子が二階からゆっくり降りてきた。
途端に、リビングの空気がぎくりと固まる。
「おばさん、ここにいたんだ。仕事、見つかった?」
葉山歩美がわざとらしく言う。
さすがに見かねたアンニが、小さな声で補足した。
「葉山さん……こちらは、若奥様でいらっしゃいます」
葉山歩美はアンニを冷ややかに一瞥し、聞こえなかったふりをした。
宮原知子は、そこに二人がいることすら目に入らないように、まっすぐキッチンへ向かう。
「待って」
葉山歩美が呼び止める。申し訳なさそうな笑みを顔に貼りつけたまま。
「ごめんなさい。さっきはあなたの立場を知らなくて、失礼なこと言っちゃった。気にしないでね」
宮原知子は返事もしない。振り返って軽く歩美を見やり、次いでその横の長川輝夫へ視線を滑らせる。
「別に。すぐに、そうじゃなくなるから」
長川輝夫の表情が、わずかに強張った。
宮原知子はキッチンに入り、冷蔵庫から水のボトルを取り出す。グラスに注ぎ、勝手に飲み干した。
長川輝夫が低く言う。
「身体の具合はいいのか。冷たい水なんか飲むな」
宮原知子は飲み終えても、聞こえなかったようにグラスを置く。
「宮原知子」
「聞こえてる。それで? 用がないなら、上に戻る。邪魔しないから」
「お前……」
長川輝夫は、あまりの取りつく島のなさに言葉を失った。
「お姉さん、もうすぐご飯だし、一緒に食べよ?」
葉山歩美がまた仲裁役を演じ、明るく誘う。
――見物席に座らせて、私がどれだけ惨めか見せたいだけ。
宮原知子はそう悟ると、余計なことは言わず、自室へ戻った。ドアが閉まる音が、外の世界をきっぱり遮断する。
長川輝夫が誰と一緒にいようが、誰に優しくしようが――これからは、もう気にしない。
彼女はベッドの下から、くすんだ黄色の紙箱を引っ張り出した。そこには、長いあいだ封をしてきた「誇り」のすべてが眠っている。
蓋を開けると、丁寧に保管された設計図の束が現れた。大学時代の拙い課題作品から、名が知られてからの渾身の仕事まで。
分厚い資格証、建築士の登録証、各種受賞の証明書。
――いつ以来だろう。この箱を開けたのは。
長川輝夫は、彼女に「後悔してるのか」と訊いた。
している。後悔している。
長川輝夫と結婚したことも、彼のために自分をなくしたことも。
それでも、あのとき長川輝夫を助けたことだけは、後悔していない。
自分の愛は、まっすぐで、熱かった。
当時の自分に、いまの自分が共感できないだけだ。
けれど――間に合う。まだ、やり直せる。
箱のいちばん上に、社員証が一枚置かれていた。写真の彼女は眉がきりっと上がり、笑顔には自信があった。
ホルモンの影響で顔立ちが変わり、体型も崩れた今の自分とは、まるで別人だ。
これは、かつての栄光。才能の証明。そして、この結婚に削り取られていった「自分」そのもの。
宮原知子は一つひとつを慎重に取り出し、柔らかな布で埃を払っていく。
もう、従順で出来のいい「長川奥さん」を演じる気はない。
長川輝夫のことも、もう要らない。
スイスの案件は時間がない。資料を整理して、岸江立人に送らなければ。
夜更け――部屋のドアが、きい、と押し開けられた。
葉山歩美は今夜、この家に泊まっている。
物音に気づいた宮原知子が振り向くと、純真無垢を装った目がこちらを覗き込んでいた。
「おばさん、何してるの?」
葉山歩美は湯気の立つ紅茶を持ち、にこにこと近づく。好奇心の視線が、机に広げられた図面へ落ちた。
「用?」
宮原知子の声は相変わらず冷たい。
「用ってほどじゃないよ。夕飯も食べてなかったでしょ。眠れるように、安神のお茶を淹れてあげたの」
葉山歩美は親しげにカップを差し出し、距離を詰める。
「輝夫兄さん、急な会議が入って会社に戻ったよ」
宮原知子はその紅茶を見たまま、手を伸ばさない。
「ありがとう。でも、いらない」
「そんなに壁作らないでよ」
笑みを崩さず、葉山歩美はさらに一歩寄る。身を乗り出し、机の図面を覗き込むようにして言った。
「やっぱり。昔、デザイナーだったって聞いたけど、本当だったんだね」
「あなたの立場なんて、実はずっと知ってた。でも私は気にしなかった」
「私を見たのに、どうして空気読んで出ていかなかったの?」
「長川輝夫の隣には、私みたいな女が必要なの。若くて、綺麗で、才能があって――それに比べて、あなたは……」
葉山歩美が言いかけて、言葉を止めた。
その目から、さっきまでの清純さが消えている。
――最初から清純なんかじゃなかったのだろう。
宮原知子が笑う。
「私? あなたのこと?」
「長川輝夫に長年援助されてきた、貧乏学生のこと?」
「それとも、有名校を出たくせに、いまのところ何の成果もないあなた?」
葉山歩美の年齢の頃、宮原知子はすでに作品で賞を取り、同じように誇りも自信も、美しさも持っていた。
なのに長川輝夫は、彼女を一度も振り向かなかった。
葉山歩美など――何ほどのものだ。
「でも、だから何?」
葉山歩美が薄く笑う。
「いま捨てられかけてるのは、あなたでしょ」
「私は若い。彼の隣に立てる。私じゃダメだって、どうして言えるの?」
「若いね。綺麗だね。そこまで自信があるなら、どうして私のところに来るの?」
宮原知子の淡々とした一言に、葉山歩美の顔色が一変した。
だが彼女はすぐに表情を整え、持っていた紅茶を――迷いなく、宮原知子が整えていた設計稿の上にざあっとぶちまけた。
「ごめんなさい。うっかり倒しちゃった」
葉山歩美は笑っている。
宮原知子は動かず、その様子を静かに見つめた。数秒後、口元がかすかに吊り上がる。
立ち上がり――
「ぱんっ!」
乾いた音が部屋を切り裂いた。
葉山歩美は頬を押さえ、信じられないという目で見上げる。
「……私を殴ったの!?」
「恥もなく喧嘩を売ってきたから、叩いた」
宮原知子の声は低く、軽い。それがかえって怖かった。
「それと、最初から最後まで、私はあなたなんか眼中にない」
「あなたは長川輝夫に援助されてるだけの女。――言い方を選ばなきゃ、売春婦と変わらない」
「なのに演技も下手で、頭も悪い。そんな立場を誇りみたいに振りかざしてる」
「私が、そんな相手と張り合う必要ある?」
葉山歩美の呼吸が詰まる。
宮原知子は続けた。
「あなたが欲しくてたまらない席は、譲ってあげる。受け取れるなら、しっかり受け取りなさい」
そして宮原知子は葉山歩美の腕を掴み、容赦なく部屋の外へ引きずり出した。ドアが勢いよく閉まり、残ったのは、濡れた紙の匂いだけだった。
