第1章
翼がぱちぱちと瞬きをしながら、こちらを見上げていた。
「一回呼べば……ほんとに、由香と取り合わない?」
私は頷く。
「嘘じゃないよね?」
「つかない」
「……ママ」
ようやく口にしたその声は、鈴みたいに澄んでいて――まるで取引の決済みたいだった。
腕の傷はまだ血を噴いている。包帯なんてとっくに染み切って、肘からぽた、ぽたと床へ落ちる。傷口を押さえ込みながら、私は答えた。
「うん」
「じゃあ、これからほんとに、もう僕のこと取らない?」
翼の瞳は期待でいっぱいだった。由香のそばに安心していられる理由が、ほしいのだ。
六歳の子ども。淳一の若い頃によく似た顔。
あの頃の淳一は、まだ何者でもなかった。父親に蹴り倒され、顔じゅう血だらけで、地面に膝をついて「チャンスをくれ」と懇願していた。
それでも私たちは、そこから這い上がった。淳一は言ったのだ。いちばん高い場所に並んで立つ、と。誰からも見下されない場所へ行く、と。
今、淳一はそこに立っている。
なのに私は――自分の子どもひとり、守れない。
「取らないよ」
笑ってみせる。唇だけで。
「二度と。もう、絶対に」
翼はそれを聞くなり「退院する」と言い出した。看護師に包帯を巻き直してもらい、私は翼を抱いて病院を出る。
屋敷へ戻ると、淳一はもう全員を呼び戻していた。執事、介助係、護衛――玄関先にずらりと並び、私が翼を抱えて現れた瞬間、顔に驚きが走る。私が自分で連れて帰るとは、思っていなかったのだろう。
翼が腕の中でじたばたする。手を離すと、翼はすぐ由香へ駆け寄り、彼女の胸に飛び込んで、澄んだ声で叫んだ。
「ママ!」
淳一が眉をひそめる。由香は翼を抱き上げて、どこも怪我がないことを確かめると、顔を上げて私を見た。口元には笑み。
「私とこの子の子どもでしょ。あなたに奪う権利なんてあるの?」
執事が一歩前に出る。
「教母、勝手に坊っちゃんをお連れになるなんて! 皆さま心配しておりました!」
介助係のひとりが続けた。
「由香さまこそ坊っちゃんのお母さまです。お世話は彼女に任せるべきでしょう。あなたは毎日外で撃っただの殺っただの……子どもの世話なんて分かるんですか?」
「そうだ! 翼さまに何かあったら、責任取れるのか!」
興奮した誰かが数歩詰め寄る。殴りかかってきそうな勢い。
淳一が氷みたいな声で言った。
「――そこまでだ」
空気がぴたりと止まる。全員、口を閉じた。
由香は顔を強張らせ、翼を抱えたまま踵を返して階段へ向かう。
淳一が私の前まで来て、腕を掴んだ。傷に触れられて、思わず喉の奥で呻く。それでも彼は手を離さない。乱暴に引いて、二階へ。部屋へ。扉を閉める。
振り返った淳一の声音は、苛立ちでざらついていた。
「今日、お前が埠頭に行ったせいで、あいつまで巻き込まれかけたの分かってるのか? 連中に身元が割れたら、あいつが無事でいられると思うか」
私はソファに腰を落とし、包帯の上からじわりと滲む赤を見下ろした。
「翼が誘拐されたの」
「誘拐されたって、お前が助けに行く番じゃない!」声が跳ね上がる。「あいつの仕事だ! お前が口出すな!」
顔を上げる。
この顔は、見慣れすぎるほど見慣れている。
殴られて血を吐いた淳一を、私は支えた。弾だって、身を投げ出して遮った。彼は言ったのだ――私を、この世界でいちばん権力のある女にすると。自分と一緒に、いちばん高い場所へ立たせると。
なのに今、彼は私を見ている。
まるで、知らない誰かを見るみたいに。
「お前、自分が何者だと思ってる?」淳一は続ける。「皆の目には、あいつが母親だ。お前があんな真似をすれば、あいつが恥をかくだけだろう!」
私はずっと彼を見ていた。
見れば見るほど、知らない人間になっていく。
「……疲れた」
声は、驚くほど凪いでいた。
「行かせて。教母の席は――あの子に譲る」
