第2章

 部屋の中が、数秒だけしんと静まり返った。淳一は一瞬きょとんとし、それから肩をすくめるように笑った。

 首を振り、スマホを取り出す。どこかへ送金して、ボイスメッセージを一本。

「お前の勝ちだ。……やっぱり、あいつそう言った」

 端末をしまい、こちらを見る。

「由香がさ。お前は絶対この手で来るって言い張ってな、俺と賭けたんだよ。……ほんと女って女のこと分かってるよな。おかげで俺、大金飛ばした」

 机の縁にもたれ、声には露骨な苛立ちが滲む。

「で? そろそろ別のやり方で俺の気を引いてくれない? その手口、古すぎんだよ。素子、お前……俺が引っかかるとでも思った?」

 自分の名前が彼の口から落ちたのに、ひどく他人事に聞こえた。

「冗談じゃない」

「そりゃますます笑える」淳一はくつくつと喉で笑い、首を振った。「本気で、俺がお前を行かせると思ってる? 本気で、“行く”って言えば行けると思ってる?」

 私は、彼の頬を平手で打った。

 ぱん、と乾いた音。淳一の顔が横へ弾け、じわりと赤い痕が浮かび上がる。

「昔のあんたはどこに行ったのよ……! 私のためなら、家に戻ってまで土下座してチャンスを乞うたあんたは!」

 淳一は固まったまま、ゆっくりと顔を戻し、頬を撫でた。何も言わない。

 私は彼を見つめながら、頭の中で過去の映像だけが勝手に回り始める。

――十年前。路上で寝起きしていた頃。

 街角で、少年が数人に囲まれて殴られていた。地面に転がり、顔じゅう血まみれ。それでも連中は容赦なく蹴り続ける。私は駆け寄って、拾った鉄パイプを振り回し、連中を追い払った。少年を引きずるようにして、路地の奥へ運んだ。

 彼が目を開け、私を見て、最初に言った。

「……なんで、助けた?」

「相手が多かったから」私は答えた。

「気に入らないの」

 後になって知った。彼は一族に捨てられた隠し子だった。父親に叩き出され、息子として認められないまま放り出された。路上で何年も生きていれば、舐められて殴られるのなんて日常だ。

 私たちは一緒に暮らし始めた。この街の底で、泥を啜りながら、生きるためにもがいた。

 そんなある日、チンピラどもが押しかけてきた。

「ウチの親分と酒飲め」――要するに、私を差し出せという意味だ。淳一は私の前に立ち、殴られて吐血しながらも、一歩も退かなかった。

 翌日、彼は――自分を捨てた一族のもとへ戻った。

 私は見た。淳一が、ひとりの老人の前で膝をつくところを。老人は見下ろし、冷たい目をしていた。

「チャンスをください」淳一は言った。

「俺に、黒村を名乗る資格があるって証明させてください」

 老人が笑う。

「何を根拠に?」

「何でもします」淳一は額を床に押しつけた。

「だから、一度だけ……」

 長い沈黙のあと、老人はようやく口を開いた。

「なら、できるかどうか……見せてもらおう」

 その日から、淳一は一族の仕事を請け負い始めた。汚い、きつい、危ない――そういう仕事ばかりを。私はそばにいて、共に這い上がった。血路を切り開き、二年後には自分たちの縄張りを築き、この街の裏を支配する存在になった。

 その矢先だった。敵対する一族に、私は襲われた。

 弾丸が腹を貫いた。医者は「助かったのが奇跡だ」と言い、それでも「今後は妊娠が難しいかもしれない」と付け加えた。

 淳一は私の手を握り、震えていた。何も言わないまま、踵を返して病室を出ていった。

 三日後、敵対する一族はこの街から消えた。

――誰も残らず。

 淳一は全身血まみれで戻ってきて、ベッドの前に膝をついた。目が真っ赤だった。

「仇は取った。……子どもができなくても、怖くねぇ。俺たちには、俺たちがいる。それで十分だ」

 あの瞬間、私は誓った。この人と、一生を生きるのだと。

 それから私は必死で身体を整えた。薬を数えきれないほど飲み、医者も何軒も回った。――そして、ようやく授かった。

 これが私たちの、新しい始まりだと思った。

 けれど、それは彼の手で叩き潰された。

「覚えてる?」私は目の前の男を睨みつける。

「子どもがいなくても怖くないって言った。私たちがいれば十分だって言った」

 淳一は数秒黙り、やがて鼻で笑った。

「それは『当時』の話だ。若い頃、誰だって何回かはバカなこと言うだろ」

 言葉が、喉の奥で凍りつく。

「俺はあの頃、何も持ってなかった」淳一は続けた。

「お前を守るには、あのジジイに頭下げて戻るしかなかったんだ。代償を考えなかったと思うか? ……ただ、お前に賭けただけだ。お前なら価値があるってな」

「でも、今となっちゃ――外した」

「まだそんな昔にしがみついてんのか?」声には嘲りしかない。

「俺たちはもう、路上で飯を拾ってた連中じゃねぇんだよ。目ぇ覚ませ、素子」

 彼は背を向け、上着を手に取った。

「人は変わる。……お前も現実を受け入れること、覚えろ」

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