第3章

 俺は苦笑いして言った。

「現実をどう受け入れろっていうの? 子どもの頃からずっと、あたしの隣にいたのは……あなた一人だけだった」

 淳一の足取りが、ぴたりと止まる。

 その背中に視線を突き刺す。

「覚えてる? あのボロ屋に隠れてた頃。金ができたら一番でかい家を買ってやるって言ったよね。あたしにいい暮らしをさせて、次の飯の心配なんかさせないって」

「家の仕事をして、夜は港で荷を担いで……一度、路地で倒れたことがあった。目を覚まして最初の一言が『今日は食ったか』だった」声が、震え始める。

「十八の誕生日、三か月貯めた金でケーキを買ってくれた。あたし、あの日が初めての誕生日だった。来年からは毎年祝うって……言ったよね」

「それに、あの時……誰かがあたしに手を出そうとした」目を閉じる。

「あなた、手下を連れて南区を血で洗った。――それも、忘れたの?」

 淳一は長いこと沈黙した。長すぎて、何か言葉が返ってくると思ったほどだ。

 けれど彼はただ上着を羽織り、振り返りもせず出ていった。

 扉の閉まる音は小さい。なのに、胸の奥へ鈍器みたいに落ちてくる。

 その場に立ち尽くしたまま、ふっと笑ってしまう。

 あの思い出を覚えているのは……もう、あたしだけ。

 どれくらいそうしていたのか分からない。気づけば外は真っ暗だった。

 決めた。ここを出る。家族を捨てる。教母の席も捨てる。――そして、彼も。

 部屋を出て、淳一を見つけてきちんと話をつけるつもりだった。廊下を歩き、由香の部屋の前を通りかかったとき、中から笑い声が漏れた。足が止まる。

 扉の隙間から覗くと、由香が淳一に身を預けていた。彼の手が彼女の髪を撫で、声はひどく優しい。

「心配しなくていい。子どもが産めなくても関係ない。俺がずっと大事にする」

 その瞬間、氷水の中に放り込まれたみたいだった。

 その言葉、彼はあたしにも言った。あたしたちだけの誓いだと、信じていた。

 ようやく分かった。そんなもの、口先だったのだ。隣に誰がいようが、同じ顔で深情けを演じられる。

 約束を宝物みたいに抱えていたのは……あたしだけの、間抜け。

「ママ? そこで何してるの?」

 背後から翼の声がして、はっと我に返る。あたしは足早にその場を離れた。

 自室へ戻り、扉にもたれて……ずるずると床に座り込む。

 永遠に大切だと思っていた記憶が、今は滑稽にしか思えない。

 目を閉じる。

 朝になったら考えよう。朝になったら――出ていく。


 翌朝。騒がしい物音で叩き起こされた。状況を飲み込む前に、扉が乱暴に蹴り開けられる。屈強な用心棒が二人、雪崩れ込んできて俺の腕を掴み、無理やり立たせた。

「――っ!」

 乾いた音。頬に激痛が走り、口の中に鉄の味が広がる。

 淳一が入ってきた。後ろには由香。目は真っ赤で、泣き腫らしている。

「母のダイヤのブローチはどこ?」由香が俺を指差した。

「それ、母が残してくれた唯一のものなの。あんた、どこに隠したのよ!」

 頬を押さえたまま数秒、呆然とする。……なるほど。失くした挙げ句、俺に被せてきたのか。

 俺は鼻で笑った。

「盗ってない」

「まだ言い逃れする気!」由香が突進してきて、また平手が飛ぶ。

「昨日あんた、あたしの部屋に来たでしょ! 今日なくなってるんだから、あんたに決まってる!」

 俺は彼女の手首を掴み、強く突き放した。

「昨日は淳一に、家族を抜けるって話をしに行っただけ。信じないなら監視カメラを確認すればいい」

 その言葉に、淳一の眉がわずかに動く。由香の顔色が、さっと真っ青になった。

――反応で分かる。ブローチは、まだあいつの部屋にある。淳一が本当に映像を見に行くのが怖いんだ。

 俺は由香を真っ直ぐ見据える。

「今すぐ確認する? もし本当に俺が盗んだなら、即座に自首する。でも違ったら……名誉毀損として、家族の掟どおりに処分してもらう」

 由香の呼吸が荒くなる。何か言い返そうとして、言葉が喉で詰まった。

 そのとき、扉口から翼の声が飛んできた。

「そいつが盗ったんだ!」

 全員の視線が翼に集まる。翼は入口に立ち、小さな顔を強張らせて俺を指差した。

「昨日、由香の部屋の前で……こそこそしてるのを見た!」

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