第4章
心臓を、誰かにぐっと握り潰されたみたいだった。目の前にいるのは――命を削って産んだ、この子。もう何も期待していなかったはずなのに、ここまでやるとは思わなかった。
淳一が私の前まで歩み出る。
「見ただろ? 翼だって、お前がやったって言ってる。あんな小さい子が、嘘ついてお前を陥れるわけないよな」
由香は翼を胸に抱きしめ、涙をぬぐう。
「もういいよ、淳一。あのブローチは私にとって値段なんてつけられないけど……彼女を追い詰めたくないの」
やさしくて、寛大で――そんな顔。
けれど淳一は首を振った。目が、氷みたいに冷たい。
「家族には家族の決まりがある。盗みは、弁償か、処分かだ」
「盗ってない」
「なら、弁償して」由香が言う。
「あれはお母さんの形見なの。相場でいいから払って」
「いくら」
「一千万」
思わず、笑いが漏れた。
「そのガラクタが一千万?」
「あなたっ……!」由香の頬がかっと赤くなる。
「一千万だ」淳一が重ねる。
「三日以内。金を用意するか、処分を受けるか」
「そんな金、ない」
「お金がない?」由香がくすっと笑った。
「払いたくないならそう言えばいいのに。そんな下手な言い訳、しなくても」
淳一が由香の肩を引き寄せる。
「じゃあ家族の決まり通りだ。ちょうどいい。お前、家を出るんだろ。出ていく前に、ツケはきっちり払ってもらう」
見つめ返す。
この男は、かつて私を守るためなら何だってした。今は、私を辱めるためなら何だってする。
「……わかった」私は言った。
「家族の決まり通りにして」
屈強な護衛が二人、私の腕を掴んだ。ずるずると引きずられ、リビングの床に押さえつけられる。周りには人、人、人。全員が、私を見下ろしていた。
淳一は由香の腰を抱いて階段へ向かう。部屋へ入る前、ちらりとこちらを見た――そこには、何の感情もない。
「始めろ」
扉が閉まった。
一発目が背中に落ちた瞬間、私は唇を噛んだ。叫ぶな。痛がるな。弱みを見せるな。けれど、声を殺すほうが、もっと痛いとすぐに思い知らされる。
執事が鼻で笑う。
「昔は、親分と一緒に修羅場くぐってきた自分なら、一生ゴッドマザーでいられるとでも思ってたんでしょうな」
別の世話役が続ける。
「女ってそういうもんよ。男が情に厚いと勘違いする。でも男が覚えてるのは昔じゃなくて、新しい女だけ」
「自分がどれだけ大事にされてるつもりだったんだか。親分はもう、あいつなんか要らねえのにな」
言葉の一本一本が、刃物みたいに心へ突き刺さる。二階から由香の笑い声が落ちてくる。軽くて、甘い声。
目を閉じた。
「奥様」
年老いた護衛が、私の前にしゃがみこんだ。昔、淳一と私と、三人で路地裏からのし上がった男だ。
「医者を呼びます」声が低い。
「いい」
「ですが……」
「覚えててくれて、ありがとう。でも、いいの」
彼の目が赤くなる。やがて立ち上がり、黙って一歩退いた。うつむいたまま、もう何も言わない。
処分は続いた。どれだけの時間が過ぎたのかもわからない。二階の気配は、途切れない。
――思い出す。
あの頃、私を「陪席」に出させないために、淳一は血を吐くまで殴られても退かなかった。家族に戻るのを嫌がっていたくせに、最後には戻って――自分を捨てた父親の前に膝をついた。
なのに今はどうだ。私はここで殴られている。その間、淳一は二階で、別の女と抱き合っている。
人は変わる。愛は消える。
私が十年守ってきたものは、もうとっくに存在していなかった。
いつからか、ようやく手が止まった。
護衛たちが私を放す。私は床に伏せたまま、全身が痛かった。手をつき、ゆっくりと起き上がる。その指先が、教母の指輪に触れた。
淳一が私の指にそれを嵌めたとき、これは約束だと言った。
じっと見つめていると、急に笑えてくる。約束? ただの金属じゃないか。
私は外し、床へ投げ捨てた。
指輪はころころと転がり、執事の靴のそばで止まる。周囲が息を呑んだ。
私は立ち上がり、足を引きずりながら玄関へ向かう。
「ママ……」
一部始終を見ていた翼が、怯えた声で呼んだ。
「どこ行くの?」
答えない。大きな扉を押し開ける。
外は、冷たい夜風。
胸いっぱいに息を吸い込み、一歩、外へ踏み出した。――振り返らないまま。
