第2章
その日の午後の化学の授業は、内容がまったく頭に入ってこなかった。
学校中がカフェテリアでの一件で持ちきりだった。私のインスタはフォロワーが三百人も増え、スパークには『絵里奈はいかにして海翔を攻略したか』なんて分析する専門のスレまで立った。
でも、私の頭の中をぐるぐる回っていた疑問はたった一つだけ。
どうして彼にわかったんだろう?
放課後、海翔が校門で私を待っていた。濃紺のSUVに寄りかかっていた彼は、私を見つけるなり、温かい笑顔を向けた。
「やあ、絵理奈」彼は歩み寄ってきて、私の手を取った。
心臓がめちゃくちゃに高鳴る。彼の唇から紡がれるその言葉は、甘いのにどこか聞き慣れなくて、現実味がない。
「海翔」私はついに堪えきれずに尋ねた。「どうして……どうしてあの告白を書いたのが私だってわかったの?」
海翔は微笑み、その目に何か読み取れない光が一瞬よぎった。「本当に知りたい?」
「うん」
彼は私の手を引いて駐車場へと向かう。「乗って。いい場所に連れて行って、ゆっくり話してあげる」
彼が車で連れて行ってくれたのは、海だった。沈みゆく夕日が海を金色に染め上げ、頭上ではカモメが輪を描いている。
私たちは砂浜に座り、潮風が私の髪を揺らした。
「あのさ」海翔が不意に言った。「俺、結構前から君のこと見てたんだ」
「去年の秋の写真部の展示会」彼の眼差しは優しい。「君が撮ったあの写真、『孤独な木』――俺、あの前で十分間も立ち尽くしてた」
あの写真……。
校舎裏の丘で撮った、一本の裸の木。葉をすべて落とした枝が、灰色の空に向かって、孤独に、でも挑戦的に伸びている。
「思ったんだ」海翔は続ける。「こんな写真を撮れる女の子は、きっと綺麗な心を持ってるんだろうなって」
彼は私の方を向き直る。夕焼けが彼の青い瞳の中で揺らめいていた。「それから、君に注目するようになった。君はいつも一人で、いつもカメラの後ろに隠れてて、いつも優しい目で世界を観察してた」
「だから……」私は慎重に尋ねた。「私のことを理解してくれてたから、あの告白が私だってわかったの?」
でも、それは偶然すぎる気がする。学校には彼に憧れている女の子なんて、たくさんいるのに……。
海翔は、どこかミステリアスな表情で笑った。「わかっただけじゃない。あの告白の文章、あの繊細な感情、あの観察者の視点――あれは絵里奈、君にしか書けないよ」
彼は私の顔を両手で包み込む。「それに、『孤独な木』、『一番明るい星』、『白黒の世界』……こういうイメージは、君の写真のスタイルとぴったり一致してた。読んだ瞬間に、君だってわかったんだ」
そういうことだったんだ……。
私の心臓の鼓動が、少しずつ落ち着いていく。スパークから情報が漏れたんじゃない――海翔は、私の言葉だけで私だとわかるくらい、私のことをよく見ていてくれたんだ。
これって……特別な運命、なのかな?
「でも……」私は唇を噛んだ。「あの告白は事故なの。投稿するつもりなんてなくて、ただ……」
「わかってる」海翔は私の言葉を遮り、再び顔を包み込む。「でも、時々、事故は最高の贈り物になるんだ。あの告白がなかったら、君は自分の気持ちを俺に伝えてくれなかったかもしれないだろ?」
そして彼は、夕日の残光の中、波の音と、私の高鳴る心臓の音を背景に、私にキスをした。
多分、彼の言う通りだ。多分、これは運命の采配だったのかもしれない。
次の一週間は、私の生活をすっかり変えてしまった。
海翔は毎朝寮の前で私を待っていて、キャンパスを横切るときは私の手を握ってくれた。今まで私を無視していたクラスメイトたちが、積極的に挨拶してくるようになった。真琴でさえ、廊下で会うと微笑んでくれる。でもその笑顔には、私には読み取れない何かが隠れているようだった。
火曜の午後、彼は授業が終わるのをグラウンドのそばで待っていて、みんなの前で私の額にキスをした。
「君がいると、もっといい人間になりたいって思うんだ」彼はそう言った。
通りすがりの生徒たちが、羨ましそうに私たちを見る。「お似合いのカップルだね!」「絵里奈って、本当にラッキーだよね!」
水曜の放課後、海翔は私を車に乗せて夕日を見に海へ行った。潮風が私の髪を乱す中、彼はバックパックから小さな箱を取り出した。
「慌てるなよ」彼は笑った。「まだプロポーズの時間じゃないから」
中に入っていたのは、小さな星のペンダントがついた繊細な銀のネックレスだった。
「俺が君の星だって言っただろ」海翔は自らそれを私の首につけてくれた。「でも本当は、君が俺の世界を照らしてくれたんだ。絵里奈は、みんなに見てもらう価値がある」
涙で視界が滲む。これが、本当に私の人生なの?
木曜の夜、寮で写真を整理していると、突然電話が鳴った。
「絵理奈!」母の声は興奮で震えている。「重大ニュースがあるの!」
「どんなニュース?」私は肩で電話を挟み、編集作業を続けた。
「最近、私がずっと残業してたの、覚えてる?」
「うん、病院が忙しいって言ってたよね」
電話の向こうで母が深く息を吸うのが聞こえた。「実はね……付き合ってる人がいるの。それでね、あなた、私たち、結婚するのよ!」
私は凍りついた。手からマウスが滑り落ち、机の上に音を立てる。
「本当に!?お母さん!」
「ええ!」母の声は感極まっている。「彼は素晴らしい人なの、絵里奈。人柄もいいし、仕事も安定してる。そして何より、私のことを本当に愛してくれてる」
私が八歳の時に父が出て行ってから、母は丸々十年、一人で苦労してきた。こんなに幸せそうな母の声を聞いて、私の目にも涙が浮かんだ。
「本当によかったね!」
「明日の夜、夕食を食べに帰ってらっしゃい。彼に会えるわよ!」母は興奮気味に言った。「ああ、それとね、彼にはあなたと同じ年で、海峰学園に通ってる息子さんがいるの。きっといい友達になれるわ!」
「私と同い年?海峰学園に?」私は驚いた。
「明日になればわかるわ!」母は笑った。「きっと素敵な子よ」
電話を切った後、私は窓の外の星空を眺め、期待で胸を膨らませた。
予期せぬ恋、そして完全な家族。人生は、本当に完璧になろうとしていた。
翌日、金曜の午後の最後の授業。私は化学の先生が黒板に数式を書き連ねるのを、ぼんやりと眺めていた。
今夜、ついに母の新しい恋人とその息子さんに会える。四人家族の幸せな光景を想像し、無意識に笑みがこぼれた。
「何考えてるんだ、そんなに嬉しそうに笑って」授業が終わると、海翔が私の肩に腕を回してきた。
「お母さんが結婚するの」私は興奮して言った。「今夜、未来のお義父さんとお義兄さんに会うの!」
「そりゃすごいな!」海翔は私の額にキスをした。「じゃあ、また週末に?」
「うん、週末にね」
私は海翔にキスをして別れ、期待に胸を膨らませて家路についた。
午後六時、私は玄関のドアを開けた。
リビングには料理のいい匂いが満ちている。母はめったに着ないワンピース姿で、キッチンとダイニングルームの間を忙しそうに行き来していた。
「絵理奈、おかえり!」母は興奮して駆け寄ってきた。「手を洗ってきてちょうだい。もうすぐいらっしゃるから!」
私の心臓は、訳もなく速くなった。期待のせいか、緊張のせいか。
十分後、ドアのチャイムが鳴った。
母は深呼吸をし、髪を整えてから、ドアを開けた。
「ようこそ、ようこそ!さあ、入って!」
私はリビングに立ち、新しい家族に挨拶する準備を整えていた。
中に入ってきたのは、スーツを完璧に着こなし、優しい笑みを浮かべた中年の男性だった。
「君が絵里奈さんだね。藤原誠一です」彼は手を差し出した。「これからは誠一おじさんと呼んでくれ」
「初めまして、誠一おじさん」私は丁寧に彼の手を握った。
「息子は今、車を停めていてね。すぐに上がってくるよ」誠一さんは微笑んだ。「君と同じ年なんだ。きっといい友達になれると思うよ」
ドアの外で足音が響いた。
私は振り返り、新しい兄を迎える準備をした。
戸口に、背の高い人影が現れた。
金色の髪。
見慣れた赤いスタジャン。
海のように青い瞳。
藤原海翔。
私の、彼氏。
