第1話 家を追い出された日
「実の娘が見つかった。出ていけ。今日から遠野家とお前には関係がない」
健吾がそう言い放ったとき、凛は手元の書類を整える手を止めなかった。一ヶ月前から知っていた。
十八年前の台風。関東を襲った大規模停電。混乱した産院で、二人の女児が取り違えられた。凛は遠野家の娘ではなかった。
健吾と春奈は実の娘である咲良を取り戻すと、真っ先に凛を追い出しにかかった。
それでも凛は書類を整えた。この家でただ一人、本当の意味で自分を愛してくれた人のために——祖父、遠野勝三のために。
整え終えた書類を手に取った。
三枚。
凛が管理する会社を通じて遠野建設へ流した緊急資金の記録。凛が裏でまとめた独占供給契約書。まもなく入金される案件の回収明細。
たった三枚が、遠野建設の流動資金と利益の四割近くを支えていた。
健吾も春奈も何も知らなかった。
自分たちが取ってきた案件だと思い込んでいる。凛に帳簿をつけさせていたのは、施しのつもりだった。実の娘を取り戻した今となっては、凛が十八年間遠野家の金を食い潰した出来損ないとしか見えていないだろう。
資料の一番上にメモを貼った。資金の流れと主要な連絡先を短く書き込んだ。電気を消し、書類を持って資料室を出た。
廊下を抜けると、ちょうど春奈が階段から降りてくるところだった。凛の手元の紙束に一瞥くれただけで、足を止めない。
「それ、片付いたら捨てといて」
期限切れの調味料でも処分するような口ぶりだった。
読めない。読もうとしたことすらない。
凛は何も言わず、玄関へ向かった。
灰青色の古いスーツケースが玄関に置いてあった。
凛はしゃがみ、書類を足元に置いてファスナーを開けた。数年前の安物の古着が数枚。サイズも合っていない。
ケースを閉じ、書類を持って立ち上がった。
健吾が扉のそばに立っていた。スーツ姿で、両手を背中に回している。
「血縁ってのは、やっぱり切れないもんだ」
健吾は凛を見ていなかった。肩越しに外の灰色の空を眺めたまま言葉を続けた。
「実の親のもとへ帰れる。お前にとっちゃ、悪い話じゃないだろ」
声には念入りに仕込まれた慈悲があった。売れ残りをようやく処分できた商人が、泣く泣く手放す慈善家を演じている。そういう声だった。
凛はちらりと見た。「荷物はいらない」
書類を手に踵を返し、渡り廊下へ向かった。
角を曲がりかけて、足が止まった。祖父はまだ病院で人工呼吸器につながれている。遠野建設は祖父が一生をかけた会社だった。この書類があれば、健吾の手に渡っても、もう少しだけもつかもしれない。
振り返った。健吾と春奈が玄関先で何事かを小声で話し合っている。
凛は落ち着いた声で、封筒を健吾に差し出した。
「会社の中核資金の記録と取引先との供給契約書が入ってる。何かあったとき、遠野建設の流動資金くらいは守れる。祖父の遺したものが心配なだけだ」
健吾が眉をひそめ、手を伸ばしかけた。
春奈が横からひったくり、封を破った。
紙がばさりと散った。ページをめくり、数字と条文の並びに目を走らせた。唇が動いた。何かを読み上げているようだった。それから顔を上げ、口の端を歪めた。
「なんだ、ただの経理の紙切れじゃない」
手を上げ、回収明細を真っ二つに破った。破片が凛の足元に落ちた。
「こんなゴミで、祖父の遺したものが心配?誰に見せてるつもり。遠野家のことに、あんたが口出しする筋はないのよ」
健吾は春奈の手の破片を見て、しばらく黙っていた。それから屈み、床に散った紙片と封筒の残りをまとめて拾い上げた。凛の目の前で、一枚ずつ引き裂いた。大きさも揃えず、金属のゴミ箱へ放り込んだ。
スーツの内ポケットから、印刷済みの絶縁状を取り出し、凛の前に投げた。二通。朱肉まで揃っていた。
「署名しろ」
凛は受け取った。「血縁断絶」「財産無関係」「永久不往来」——文字が太く黒く刷られていた。
一行ずつ目を通した。顔に何も浮かばない。
署名し、拇印を押した。一通をリュックにしまった。
「この瞬間から、私と遠野家に関係はない」
言い終えて、凛の視線は健吾の肩を越えた。渡り廊下のガラス戸の向こう、庭の奥で老梅の枝が冬の風に揺れていた。
幹に小さな木札が下がっていた。祖父が何年も前に自ら掛けたものだった。筆で書かれた凛の名前は、長い年月でかすれていた。
この家で、ただひとつ破かれずに残ったもの。
ゆっくりと顔を上げ、健吾と春奈を見据えた。
声が冷えていた。軒先に張った薄氷のように。
「それを」
一拍。
「破いたこと、いつか後悔する」
庭の石畳には白砂が敷かれていた。
凛は回廊を抜けかけたところで足を止めた。あの老梅をもう一度見ておきたかった。だが梅の木の下、咲き終わった紫陽花のそばに咲良が立っていた。隣にいた五十嵐修也は、電話を受けてちょうど離れたところだった。
咲良はキャメル色のカシミアコートをまとい、両手を前で重ねていた。雑誌の表紙から出てきたような佇まいだった。凛の視線に気づくと、ほどよい哀れみの表情を浮かべて近づいてきた。
「お姉さん」
初春の柳の綿のような声だった。
「パパがひどいことしてごめんね……でも正直、お姉さんが一人で出ていくほうが、みんなのためじゃない?」
健吾が回廊の軒下で頷いた。声に本心からの満足が滲んでいた。
「そうだろ、咲良はわかってる」
咲良は父の言葉にわずかに微笑んだ。足は止めなかった。老梅に近づき、手を上げ、木札の麻紐を二本の指でつまんで引いた。
木札が枝から落ち、石畳に鈍い音を立てた。角の塗装が欠けた。咲良は爪先でそれを脇へ押しやった。
「こんな古臭いもの、置いてあっても邪魔なだけ」
凛は振り向いた。目に揺らぎはなく、声は凍った湖面のように平らだった。
「それは祖父が掛けたものだ。祖父はまだ生きている。あなたに触る資格はない」
咲良の顔色がさっと沈んだ。
勝三はいまだ遠野建設の株式と発言権を握っていた。咲良には言い返せなかった。凛にはどう振る舞ってもよかったが、祖父が生きている間は、その権威に逆らう気にはなれなかった。
凛はそれ以上相手にせず、門へ向かって歩き出した。
そのとき、背後からかすかな音が届いた。
