第3話 迎えに来たのは九条家の執事だった

男は石門柱に手をついて喘いでいる。深紺の綿ジャケットは汗でほぼ全身がぐっしょりと濡れ、肩口と袖には山道の草屑と泥が点々と付着していた。

ズボンの裾から下は土埃で白く汚れ、膝には手のひら大の穴が開いていた。中の皮膚がかすかに見え、血がにじんでいる。もとは黒いはずの布靴は、泥にまみれて元の色がわからなくなっていた。

男は立ち止まり、深く息を吸って、門口に向かって小さく頭を下げた。

「すみません……こちらは、遠野さんのお宅でしょうか」

「千川忠次と申します。凛お嬢様をお迎えに上がりました」

遠野春奈が反射的に一歩退いた。

眉をひそめ、千川を頭からつま先まで一瞥する。そのまま視線を往復させて値踏みした。

千川の満身の泥と汗を見て、遠野春奈は「凛お嬢様」という呼び方を聞き流した。この男が凛の実の父親だと、即座に決めつけた。

口の端がひくりと動き、嘲笑が浮かんだ。

「なんだ、結局あんたの実の父親が来たっていうの」遠野春奈は凛の方を向き、見下すような嫌悪を笑みに混ぜた。「だから言ったでしょ? 血筋ってものは隠せないって。あの貧乏ったらしい格好を見なさい。やっぱりあんた、貧乏人の子ね」

遠野健吾が低く鼻を鳴らした。視線は千川を飛ばして、凛の顔に落ちる。

声は冷たく、平坦だった。最初から結論が決まっていたような口調だ。

「実の父親があのざまとは、よくも十八年も遠野家に居座れたものだ。さっさとあの男について行け。これ以上、うちの恥を晒すな」

五十嵐修也は何も言わなかった。

千川を一瞥しただけだった。色褪せた綿の上着から泥だらけの布靴まで、一秒とかからなかった。

すぐに視線を外した。これ以上見たら、何か体裁の悪いものでも移るかのように。

遠野咲良が遠野春奈の背後からそっと顔を覗かせた。

目が一瞬きらりと光り、そのすぐあとに、柔らかな惜しむような声になった。

「お姉さんの本当のお父さん、ちょうどいいタイミングで来たわね……お姉さんが追い出されるところを見られちゃった」

一呼吸置いて、声がさらに低くなる。

「でもいいんじゃない。それぞれのおうちに帰れるんだから。お母さんの言う通り、血筋って本当に隠せないものね」

千川は門のところに立ったまま、一瞬表情を強ばらせた。

口を開きかけた。何か言おうとした。

膝の擦り傷はまだじくじくと痛んでいた。千川は自分の泥だらけの服に目を落とし、玄関の磨き上げられた木の床と壁に埋め込まれた装飾石材を見て、結局口を閉じた。

説明で消せるものと消せないものがある。千川は、いつ説明の力を省くべきかを知っているだけの年を重ねていた。

顔を上げ直すと、遠野春奈、遠野健吾、五十嵐、遠野咲良の順に視線を外していった。最後に、凛だけを見つめる。

目の縁が、みるみる赤くなった。

屈辱のためではなかった。

長い道のりを走ってきて、ようやく迎えるべき人を見つけたのに、その人がついさっきまで何をされていたのかを、この疲れ果てた老人は悟ってしまったからだ。

だが、何も聞かなかった。

腰をかがめ、石畳に散らばった写真を一枚一枚拾い上げた。袖口で泥を拭い、丁寧に揃える。割れた木箱の破片と一緒に、両手で凛へ差し出した。

「六お嬢様」

声を落とし、二人にしか届かない音量で言った。その抑えた仕草は、十八年越しの何かをようやく果たすような、そんな儀式めいたものだった。

「九条家の執事でございます。お迎えに上がりました」

凛は写真と木箱の破片を受け取り、バッグの一番奥に丁寧にしまった。それから顔を上げ、千川の膝の擦り傷を見る。

「足が」

千川は一瞬きょとんとして、すぐに手を振った。

「大したことはございません。こちらは少し奥まっていて、車で上がれるかどうか確かめようと、先に歩いて参りました。山道で一度転びまして」

凛はそれ以上聞かなかった。

「行きましょう」

千川が車のドアを引こうと背中を向けた瞬間、懐から茶封筒が滑り落ち、石畳に落ちた。封が開き、国章の入った乳白色の書類が端だけ覗いた。

遠野健吾がそれを拾い上げ、広げた。それから笑った。

書類を裏返して、皆に見えるように掲げる。埼玉県議会の朱い公印、「任期延長に関する任命通知書」という本文、末尾には県知事と県議会議長の連名印があった。

「来るだけでなく、偽の任命書まで用意してきたか」遠野健吾は笑いながら首を振った。「よくできてはいるが、あいにく俺が遠野健吾本人だ。俺の任期延長通知書が、山奥の老人の手で届くわけがない」

書類を二つ折りにし、無造作に放り投げた。紙は石畳に落ち、木箱の破片の隣に重なった。国章が泥水を吸っていく。

千川は口を開きかけて、言葉を飲み込んだ。

「この文書は今朝、国会事務局が発行したものです。私はただ命令を受けて——」

「国会?」遠野春奈が声に出して笑った。「愛知の山奥から出てきた貧乏な老人が、国会の書類を届けに来ただって? あんたみたいな人間は何人も見てきたわ。今度は偽の証明書で金をゆすろうってんでしょ。お断りよ!」

千川はもう何も言わなかった。黙って書類を拾い上げ、泥と靴跡を払って封筒に戻し、懐にしまった。それから運転席へ回り、エンジンをかけた。

SUVが向きを変え、砂利道を山道の入口へと走り出す。車体には半乾きの山泥がべったりと付いた白いトヨタで、フロントバンパーには枯れ枝が一本引っかかっていた。だが、品川ナンバーが付いていた。

五十嵐の視線が、その品川ナンバーに一瞬止まった。

さっきの任命書の国章の表題が頭をよぎる。千川が言った「国会事務局発行」という言葉も思い出した。

山道の先を見つめた。SUVはすでにカーブの向こうへ消えていた。

五十嵐が玄関に入ると、遠野咲良が遠野春奈の肩にもたれて「お姉さん、やっとおうちに帰れたね」と囁いていた。遠野春奈が遠野咲良の髪を撫でている。

ドアを閉める前にもう一度だけ、山道の方を見た。あのSUVのテールランプはもう見えなかった。

愛知の山奥から出てきた貧しい老人が、品川ナンバーの車に乗り、国会事務局の書類を届けに来た。どう考えても、辻褄が合わない。

だが、考えるのは面倒になった。あの老人がどんな車を借り、どんな書類を偽造して体裁を繕おうと、いま自分が手元に置くべき駒は遠野咲良だ。

ドアを閉めた。


一方、SUVが遠野家の石門柱を離れた直後、車内の通信機が青く光った。千川が応答ボタンを押すと、短い指示が数言、受話口から流れてくる。

一言返事をして通信を切り、バックミラーで凛を見た。

「六お嬢様、九条本家よりご連絡が入りました。この先、白川町山頂のプラットフォームにヘリが待機しております。山道を戻らずに東京へお戻りになれます」

凛はウェットティッシュで木箱の破片の泥を拭っていた。それを聞いて、小さく頷いただけだった。

「なら、家には戻らず、聖華総合病院へ直接向かって」

千川はハンドルを握る指を一瞬だけ強くした。理由は聞かず、静かに答えた。

「かしこまりました」

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