第4話 百億の薬が遠野勝三の命を救った

ヘリは東に向かって安定した飛行を続けていた。

凛はリュックの一番内側のジッパーを開き、冷たい金属製の薬箱を取り出した。恒温シリコンケースに包まれた六本の注射剤が整然と並んでいる。液体は極めて淡い金色をしていた。千川忠次が副操縦席から振り返り、注射剤の外装に刻まれた暗赤色の識別マークを目にした。目頭が赤くなった。

「六のお嬢様、それは——」

「強心剤『神域』です」凛は薬箱を手に握り締めた。「お祖父様が心筋梗塞で意識不明です。通常の血栓溶解では救えません」

千川の喉仏が一度動いた。

『神域』が何かは分かっていた。暗網「夜梟」プラットフォームで史上最高値をつけた処方級の違法薬物。世界の流通量は二十本に満たず、一本あたりの精製コストは一億二千万円を超える。

それ以上は何も聞かなかった。ただ俯いて、袖口で目尻を押さえた。

凛は薬箱を見つめた。

十四年前の冬、高熱を出した凛は遠野春奈に暖房のない部屋へ閉じ込められた。杖をついた遠野勝三が、一段一段階段を上ってきてくれた。ごつごつした手の甲で、額の熱を確かめてくれた。

薬箱を胸に押し当て、目を閉じた。


聖華総合病院の屋上ヘリポート。柊隆史の白衣がローターの巻き起こす強風に激しくはためいていた。

凛がタラップを降りると、柊はすぐに駆け寄り、病危通知書を差し出した。

「搬送時にすでに四十分以上、意識がありません。心筋酵素は臨界値を超え、直前に一度、呼吸が止まりました」

凛は歩きながらデータに目を通し、通知書を折りたたんでポケットに仕舞った。

「開胸はしません。強心剤で心機能を安定させてから、カテーテル介入に移ります」

エレベーターのボタンを押す。扉が開いた。

「ICUへ案内してください」

エレベーターが降下していく。

VIP病棟の廊下には絨毯が敷かれ、空気清浄機が均一なホワイトノイズを流していた。

柊はセキュリティカードを三度かざし、最奥のCゾーンまで凛を通した。

歩きながら口を開く。「昨夜、一度だけ意識が戻りました」

凛の足は止まらなかった。

「『凛を追い出させるな。あの子は私の孫だ』と。そう言って、また意識を失いました」

凛の足が一瞬だけ止まった。すぐにまた速足で先を進んだ。

ベッドの傍らに立ち、ポケットから金属製の薬箱を取り出す。蓋を開け、一本を手に取った。恒温シリコンケースを剥がすとき、ごく微かな音がした。

柊は背後で、何か言葉をかけようとしていた。

その視線が注射剤の管体に刻まれたレーザー印字に落ちた。瞳孔が収縮する。

あのコードは見覚えがあった。去年のジュネーブ国際医学サミットの内部資料に載っていた。

黄金の三角地帯に自生する寄生菌から抽出された強心剤。暗網での落札価格は一本百億円。世界の流通量は二十本に満たない。

医学界では『神域』と呼ばれている。

「これは——どうやって——」

柊の声が喉の奥で止まった。

凛が一回用注射器を開封し、気泡を弾き、消毒し、穿刺し、薬液を押し込む。一連の手順は四十秒に満たなかった。手つきに無駄がない。何百回と繰り返してきた者の動きだった。

百億円一本、金を積んでも手に入らない注射剤が、凛の手の中では一般外来の処方薬と変わらなかった。

薬液が入ると、モニターの数値が動き始めた。血圧は七十五から上昇し、心拍数はゆっくりと安定した正弦波を取り戻していく。

柊はその緩やかに回復していく曲線をじっと見つめ、長く沈黙した。再び口を開いたとき、私立名門の生まれであることを鼻にかけた口調は、どこにも残っていなかった。

「ど、どうか、お続けください」


病室を出た直後、廊下の奥から救急コールが鳴り響いた。

鉄輪が床を削る耳障りな摩擦音が近づいてくる。いくつもの声が重なった。

「血圧が六十まで落ちました」「どいてください」「開胸セットを用意してください」

救急カートが凛の前を通り過ぎた。

カートの上では、血を吸って重くなった紗布が腹部を覆っている。その端から覗いた暗紫色の青あざ。凛の足が止まった。

極道の間で常用される止血剤「黒鷲」。外傷の血を一瞬で止めるが、過剰に使えば致命的な内出血を腹腔に閉じ込めたまま進行させる。

カートの上にいるのは、鷹司貴彦だった。

「手術室を準備しろ!」短髪の若い医師が前に出て、追おうとした柊を手で制した。「柊先生は下がっていてください。腹部銃創です。開腹して弾片を摘出すれば済みます」

胸のネームプレートには「救急部・鶴田健二」と記されていた。

凛はナースステーションの傍らに立ったまま動かなかった。声は高くない。だが、カートの速度を一拍分鈍らせるには十分だった。

「開腹はできません」

鶴田が声のした方へ顔を向けた。

その視線が凛の泥の付いたズボンの裾をなぞり、まだ若い顔を眺めた。口元の笑みを隠しきれていない。

柊に向かって両手を軽く開いた。

「誰ですか?どこの田舎から来たんです?」

柊が口を開こうとしたとき、凛が先に続けた。

「大動脈分枝が第六胸椎の下で弾片に圧迫されています。止血剤による血栓が破裂口を一時的に塞いでいる——外は止まっていても、内側は止まっていません。開腹すれば、腹腔の減圧で血栓が一瞬に押し流され、内出血は二十秒で腹腔を満たします」

鶴田は笑い出した。長年、身分の優越感に漬かってきた者の軽蔑が、その笑みに滲んでいた。

「大学病院にすら入ったことのない研修医崩れですか?教科書に書いてあるでしょう。この種の外傷は即時開腹が止血の原則です。診療許可証も出せない素人が、ここで私に指示ですか」

「外は止まっていても、内側は止まっていません」凛は鶴田を見なかった。目はカートの上、青灰色に変わりつつある鷹司の顔に向けられている。「開腹すれば主動脈は破裂します」

その言葉が終わるか終わらないかのうちに、鷹司の体が激しく弓なりに反った。暗赤色の血が口元から溢れ出る。続いてさらに多くの血が顎を伝い、白いシーツに流れ落ちた。止まらない。一口、また一口と、鮮血を吐き続けている。

モニターが悲鳴を上げた。

鶴田の笑顔が宙で固まった。

柊が聴診器を掴み、鷹司の腹部に当てた。半秒も聞かずに顔色を変え、振り返ってナースに怒鳴る。その声はすでに普段の調子ではなかった。

「直ちにREBOAの準備!大動脈内バルーン閉塞だ!」

顔を上げ、命令するような目で凛を見た。

凛はすでにカート脇の救急トレーから無菌手袋を抜き取り、はめながら、顔も上げずに指示を出していた。

「左大腿動脈穿刺、22号カテーテル、バルーン充填量三ミリリットル。利心針六ミリリットルを二回に分けて静注、間隔は二分以内」

手袋をはめる動作は、誰の目にも追えなかった。最後の言葉を言い終えたとき、左手の指先はすでに鷹司の左大腿動脈を圧迫していた。右手に捻った穿刺針が蛍光灯の下で迷いなく進んでいく。余計な震えは一切ない。

山田浩二ら、集まってきた医師たちは誰も声を出せなかった。

泥だらけの少女の素性を知る者はいない。だが、深淵から緩やかに浮上してくるモニターの数値は、全員の目に映っていた。

バルーンが所定位置で膨らみ、鷹司の血圧は安全域に跳ね返った。モニターの警報が止まる。

鶴田は人の輪の端で、顔色を何度も変えていた。

素性の知れない女に、公衆の面前で診断を覆された。受け入れられるはずがない。

深く息を吸い、白衣の襟を整えて歩み寄る。声の調子が変わっていた。より殷勤で、より露骨な探りを交えて。

「そこまで分かるなら、手術は私が執刀する。あなたはアシストに回ってくれれば——」

「お断りします」

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