第5話 誤診した主任医師がその場で解任された
凛は腰を伸ばした。グローブは血に染まり、声は冷たく、迷いがなかった。
鶴田の手が宙で止まった。
ストレッチャーを囲む研修医たちへ、ちらりと目をやった。視線が泳いでいる。だが、その泳ぎそのものが答えだった——彼らは見ていた。大動脈バルーン遮断の一部始終を。泥だらけの少女が四十秒で鷹司を死の淵から引き戻す瞬間を。
そして鶴田は、あの男を開腹の深みへ突き落としかけた。
手を引っ込め、白衣のポケットに差し入れた。ポケットの中で指を握りしめては開く。それを三度繰り返した。
それから口を開いた。声は、さっきまでの値踏みするような愛想ではなかった。もっと重く、もっと遅く、もっと作為的なものだった。
「あなたは本院の医師ではない」
鶴田は言った。
「診療許可証すら持っていない」
一歩、前に出る。
「今日、聖華総合病院であなたが行ったすべての処置——先ほどの大動脈バルーン遮断を含めて——は違法です」
廊下の空気が、ふっと固まった。
山田が二人の間に立ち、唇をかすかに動かした。
何か言いたかった。あの少女がいなければ、鷹司は今ごろ死んでいた、と。
だが、鶴田の目を見た。
見慣れた目だった。権威を踏みにじられた後、どうしても取り返さなければならない、あの執念だった。
だから、山田は頭を下げた。
鶴田は振り返り、ストレッチャーを囲む研修医と看護師たちへ向けて、声を半音張り上げた。
「皆さんは証人です。この方——名前すら名乗らなかったこの方は、私が手術リスクと院内規程を明確に説明した後も、独断で鷹司さんに侵襲的医療処置を行いました。本院の診療許可もなく、術前説明書もなく、家族の署名もなく、基本的な診療者登録さえされていません」
一拍置いて、一人一人の顔に視線を走らせた。
「万一、鷹司さんに何か合併症が起きたら——責任は誰が取るんですか。あなたたちの誰が取るんですか」
誰も答えなかった。
日本の病院では、「組織に迷惑をかけるな」は「命を救え」よりずっと重い原則だ。
それは皆が知っていた。鶴田も知っていた。
口の端に、ごく薄い笑みが浮かんだ。
「ですから、院内の安全のため、そして鷹司さんの権益のためにも——この方には今すぐ救急エリアから立ち去っていただきます。それから」
スマートフォンをポケットから取り出す。
「医務課に報告します。今日の処置経緯は、先ほどの監視カメラの映像も含め、すべて証拠として保存されます」
鶴田は凛を見た。
「自分で出ていくか、警備員に連れて行かせるか。どちらですか」
凛は鶴田を見た。
血のついたグローブを脱ぐ。片方ずつ、裏返して、医療用のゴミ箱に放り込んだ。グローブが底に当たり、くぐもった音が二回した。
「以上ですか」
どうでもいいことを確認するような、軽い口調だった。
鶴田の笑みが、ようやく固まった。
「先ほど、鷹司さんに合併症が出たら責任は誰が取るのかとおっしゃいましたね」
凛はグローブを捨て終えると、ストレッチャーの下段から真っ白な術前説明書を一枚抜き取り、裏面を向けた。
「私が取ります」
ペンのキャップを外した。
「ただし、医務課に対してではありません。患者の命に対してです」
そう書いた。
診断者:九条凛。
診断に誤りがあれば、本人が全責任を負う。
他者の処置遅延により患者が死亡した場合、この記録を警視庁刑事部に同時提出すること。
「九条」の二文字で、鶴田の視線が止まった。
それから笑った。腹立たしさに笑ってしまった後、深追いするのも馬鹿らしいと切り捨てたような笑みだった。
「九条?」
紙を裏返し、指先で弾いた——煙草の灰を弾くような、軽薄な仕草で。
「東京の九条家が、いつから山奥から泥まみれの——」
一瞬置いて、言葉を選んだ。
「私生児を這い出させるようになったのか」
この言葉が落ちたとき、山田でさえ、何かおかしいと感じた。
しかし鶴田はすでに笑みを引いていた。その紙を二つ折りにしてポケットへ押し込み、看護師長に手を振った。
「警備室に連絡を。それから、さっきの廊下の監視カメラを——」
「呼ばなくていい」
声は廊下の奥から聞こえた。
柊。
柊は、さっきまで人だかりの後ろに立ち、ナースステーションのカウンターに寄りかかって腕を組んでいた。手術帽を目深にかぶったままだった。
鶴田が凛を責め始めてから「私生児」の一言まで、柊は一度も口を挟まなかった。だが、手にはすでにスマートフォンが握られていた。
歩いてくる。鶴田には目もくれず、まっすぐ凛の前まで来た。
そして、頭を下げた。
「九条さん。先ほど遠野勝三先生の手術室の外で、考えていたことがあります」
スマートフォンを裏返した。画面には、編集済みでまだ未送信のメールがあった。宛先:柊家医療財団・人事委員会。件名:聖華総合病院救急部における鷹司貴彦銃創対応時の手続き違反報告について。
「『神域』を六本持ち歩ける方なら——あなたの診断を、私は信じます」
スマートフォンをポケットに戻した。
「十五番手術室は空けてあります。カードキーも通してあります」
「柊先生」
鶴田の声がようやく裏返った。
「何をしているか分かっているのか。素人を、本院救急部の主任医師と交代させようとしている——」
「違う」
柊は振り返り、首に掛けていた手術室用のネームプレートを外してストレッチャーに置いた。
「私は素人と交代させているんじゃない」
鶴田の目を見た。
「開腹せずに大動脈分枝の弾片剥離術を完遂できる日本で唯一の人間と、鷹司さんを開腹の深みに突き落とすところだった男を、交代させているんです」
振り返り、車椅子に座る手術室の看護師長を見た。
「十五番手術室を開けてください。麻酔科に連絡を。鷹司さんを緊急開胸フローへ。執刀医は——」
一拍置いた。
「私ではありません。こちらの方です。責任はすべて私が負います」
鶴田の顔は、もはや青ざめるだけでは済んでいなかった。
顎の筋肉が二度ひくつき、唇が開いた。越権だ、手順が違う、院長に報告する——そんな言葉が喉まで出かかった。
だが、何も口にできなかった。
分かっていたからだ。もしあのまま開腹していたら、今頃は執刀権を争っている場合ではなく、鷹司家への事故報告書を書いていた。
そして何より、柊家医療財閥の次期当主である柊が、「責任はすべて私が負う」と口にした。日本の医療体制において、この一言はどんな規程よりも重い。
凛は鶴田を見なかった。
改めて無菌グローブをはめ、ストレッチャーの下段から新しい穿刺セットを取り出した。手術室へ向かう途中、靴底が床に残った最後の乾いた泥をこすり取った。
凛は手術室のドアの前で一歩止まり、横を向いた。鶴田を見ずに言った。
「先ほど私が鷹司さんに行った処置は、すべて監視カメラに記録されています」
ドアを押し開ける。
「証人になるとおっしゃいましたね。でしたら、今日おっしゃった言葉を、一字一句変えないでください」
手術室のドアがゆっくりと閉まった。
鶴田はその場に立ち尽くした。両手はまだ白衣のポケットにある。
肩がわずかに震えていた。怒りではない。自分でも何が震えているのか分からなかった。
柊が手術室のドアを押す直前、横を向いて一瞥した。
「鶴田先生。さっき、その方がどこから来たのかと聞きましたね」
声は二人にしか聞こえない低さだった。
「今教えます。その方は九条家の六女です。遠野勝三の命を、その方が『神域』で救い出した——あなたが救急室で自慢していた、一本百億円の強心剤を、その方は六本持ち歩いています」
ドアを押した。
「次に、誰が手術室に入る資格がないかと疑う前に、まず自分を見ることです」
ドアが閉まった。手術室のランプが点り、鶴田の網膜に赤い残像を焼きつけた。
鶴田は、長い間、廊下に立ち尽くしていた。やがて、一人の人物が現れると、再び動きを見せた。
