第6話 鷹司家の後継者が手術室の外で待っていた
鷹司隼人はヘリポートから直接降りてきた。
着替えていない。濃紺のスーツ、カフスボタンはそのまま、足取りは速く安定している。後ろに芳賀隆馬と、緊急で呼び寄せた二人の外科専門医。
顔に表情は一切ない。それでも廊下の看護師たちは、隼人が通る間、誰一人として顔を上げられなかった。
十五号手術室の赤いランプが点いている。
扉の前で立ち止まり、三秒見つめた。
「手術開始はいつだ」
「五十分前です」
ナースステーションの看護師の声は震えていた。
「主刀は」
廊下の向こうから隆史が歩いてきて、目の前で止まった。
「九条凛。入室権限は私が出しました」
隼人は隆史を一瞥した。手術室の扉が突然少し開き、看護師が顔を出した。切迫した表情だった。
「柊先生、中へ——術野のほうが……」
隆史は問い返さず、向き直って足早に扉の中へ消えた。扉は再び閉じた。
その瞬間、健二が飛び出してきた。
小走りに隼人の前まで来る。胸が上下し、白衣の裾はまだ乱れたままだった。
目の中に、溜まりに溜まった何かがあった。隼人を見た瞬間、それが決壊口を見つけたようだった。
「鷹司様——」
声は掠れていた。
「ようやく来てくださいました。今日何が起きたか、必ずお伝えしなければなりません。ずっと待っていました。どうしても——」
強く息を吸い、自分に言い聞かせるように語速を落とした。
「最初から、彼女を手術室に入れることに反対していました」
廊下で数人の看護師が足を止めた。
健二はそちらを見なかった。隼人だけを見て、言葉を続けた。語速を低く抑え、一字一字を歯の隙間から絞り出すようだった。
「お父様が搬送された時、私は救急救命エリアにおりました。救急部主任医師として、銃創の処置は私の職務範囲です」
一拍置いた。
「そこに彼女が現れたのです。当院の免許なし、診療登録なし。身元を尋ねても答えない。規定に従って退去を求めても、応じない」
手をぎゅっと握る。
「正規の手続きを取るべきだと伝えました。家族の署名を待つべきだと。当院に資格を持つ医師が執刀すべきだと。はっきりと伝えたのです。しかし彼女は一切耳を貸さなかった。柊先生が彼女のために手術室の扉を開け、私は止めることができなかった」
「止めることができなかった」という言葉に、本物の悔しさが滲んだ。すべて演技ではない。
実際に止められなかったのだ。その事実が、ずっと胸につかえていた。
「鷹司様」
面を上げ、隼人をまっすぐ見た。
「お父様は今、手術台の上におられます。執刀しているのは当院の資格を持たない人間です。家族の同意書も、術前のリスク説明も、何も完了していない。もし何かが起きれば——」
声を潜めた。軽く、しかし重い声だった。
「法的に追及できる手続きが一切存在しません。彼女は、今日のこの手術のどの書類にも存在していないのですから」
廊下が静まり返った。
隆馬は隼人の横に立ち、瞼を微かに動かした。
健二の言葉の隅々に気づいていた。あの切迫感、あの悔しさ、あの「ようやく誰かに話せる」という爆発感。
そしてもう一つ。健二の言葉はすべて事実だということにも。
ただ、半分が抜け落ちているだけで。
観察室では、呼び寄せられた外科医たちが黙り込んでいた。
誰も口を開かず、誰も帰らない。目に見えない圧力が四方から迫ってくる。
その場にいる全員が知っていた——隼人の父、鷹司家の人間が手術台に横たわり、執刀医は手続き上、どこにも存在しない人間だということを。
手術の結果がどうであれ、この事実自体が巨大な欠陥だった。
健二は隼人の表情を見て、心臓の鼓動がひとつ速くなった。
「鷹司様。今、手術を中断するリスクは分かっています。ですが——」
強く息を吸った。
「医師として、このようなことがお父様に対して行われるのを、黙って見ていることはできません。今日、私が話したすべてのことは、廊下の防犯カメラが証明してくれます」
この最後の言葉は、わざとだった。
なぜなら、監視カメラに何が映っているか分かっていたから。
カメラには、自分が阻止しようとする姿が映っている——それは自分に有利に働く。主任医師としての職務を果たしていた証拠になる。
そしてカメラに映っていないものも分かっていた。「今すぐ開腹しろ」と命じた瞬間は、搬送用ストレッチャーが撮影角度を遮っていた。
「私生児」と口にした数秒も、同じ角度で遮られる。それに賭けた。
隼人はすぐには口を開かなかった。
視線を観察室のモニターへ向けた。
画面には、十五号手術室の術野がリアルタイムで映し出されている。無影灯の下、凛の背中がカメラを背に、両手が安定した動きを続け、器械の受け渡しはテンポが速く、生体モニターの波形は安定していた。
長く、見つめた。健二は隣で待った。
廊下の時間が伸びきったように感じられた。
やがて隼人が口を開く。静かな、起伏のない声だった。
「観察室へ」
観察室で、隼人は画面の人影を見つめたまま、何も言わなかった。
健二は隣に立ち、少し黙ってから、最後の一言を押し込んだ。数人にしか聞こえない声量だった。
「お父様は、彼女が自分を証明するための機会なんです」
この言葉の落ち方は、それまでの何もかもと違っていた。
ここまでは告発だった。
この一言は、傷口への正確な一刺しだった。
観察室の誰もが声を出さなかった。
隼人は指先を椅子の背もたれに止めた。
それから立ち上がり、放送操作盤へ歩いていく。誰にも触らせず、自分で十五号手術室と接続するスイッチを押した。
パチン、と乾いた音。
緑のランプが点った。
手術室の音がマイクを通して流れ込んでくる——器械が金属トレイに触れる小さな音、生体モニターの電子音、外回り看護師の潜めた息。
隼人が言った。
「手術室。鷹司隼人だ」
手術室の音が一瞬、止んだ。
「中止しろ」
観察室の全員が息を呑んだ。
手術室は数秒、沈黙した。
応答はない。
隼人は十秒、待った。何の動きもなかった。
健二は隣で唇を動かした。何か言いかけて、飲み込んだ。
画面の中、凛の両手は動き続けていた。止まらず、放送に反応する様子もなく、動きは放送が入る前とまったく同じだった。
観察室の誰かが、小さく息を呑んだ。
「鷹司様、私が申し上げたとおりです」
健二は声を潜めた。だが「そういうことです」という調子が滲み出ていた。
「最初から、彼女は誰も眼中にないんです」
隼人は画面の背中を見つめる。額に青筋が薄く浮いた。
その瞬間、画面の中の術野が変わった。
暗赤色の血が白い覆布を急速に広がり、数秒で視野の大半を染めた。
健二の声が観察室を裂いた。
「大出血——」
隼人はすでに背を向け、歩き出していた。
廊下を、大股で十五号手術室へ向かう。
隆史が手術室の扉の手前に立っていた。道を塞ぎ、黙り、動かない。
二人が一瞬、目を合わせた。
隼人は扉の向こうから聞こえる、異常を知らせるモニター音、器械が激しくぶつかる音を聞いた。
強く息を吸う。
もはや冷静ではいられず、中へ踏み込もうとした。
手術室の扉が、その瞬間、再び開いた。
今度、出てきたのは看護師ではなく——両手を血に染めた凛だった。
