第69話 彼女が遠野の頬を打った直後、『朧月夜到着』のアナウンスが響く

人波のざわめきの中から、ふいに声がした。

「咲良」

聞き慣れた男の声は、高くはないのに、針のように鋭く、彼女を包んでいた甘い空気を突き破った。

遠野が声のした方を見る。

次の瞬間、顔に張り付けた笑みが硬直した。口元はまだその弧を保っているのに、瞳孔だけが急激に縮む。周囲にはこれだけ人がいるのに、振り向くことすらままならない。

「……なんで、ここに」

声は押し殺したように低く、自分でもそれが問い詰める口調なのか、取り乱しているだけなのか、わからなかった。

男は人混みの縁に立ち、数人分の距離を置いたまま、静かな目で彼女を見つめていた。それ以上、口を開こうとはしない。

ただ立っている...

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