第1章
「西園寺千枝、跪きなさい! 紗良に頭を下げて謝れ!」
男の冷たく刺々しい声が、だだっ広いリビングに響き渡った。
西園寺千枝は部屋の中央に立ったまま、長い睫毛をわずかに伏せる。ポケットの奥に忍ばせた録音器を指先でぎゅっと握りしめ、ソファにふんぞり返って命令を下す男を見た。西園寺怜司。
その隣に座るのは、西園寺家の「娘」として扱われているが血のつながりはない、いわゆる偽の令嬢――西園寺紗良。
いま、実の兄が、彼女に向かって「西園寺紗良へ跪いて叩頭しろ」と言っている。
「西園寺千枝! わざと紗良を階段から突き落としたくせに、どれだけ性根が腐ってるんだ?! 畜生以下だ!」
「俺、西園寺怜司にお前みたいな妹はいない!」
畜生以下――。
千枝の睫毛が震えた。胸の奥を締めつけるような息苦しい痛みを押し込み、かすれた声で言う。
「私は……してない……」
だが言い終える前に、怜司は脇のコップを掴み、容赦なく投げつけた。
「まだ言い訳する気か!」
ガシャンッ!
コップは千枝の足の甲に当たり、粉々に砕け散る。
白く薄い足の甲がみるみる赤く腫れ、ガラス片が皮膚を突き破って、細い脛をいくつも切り裂いた。透けるような肌に滲む鮮紅――目を背けたくなるほど痛々しい。
それでも千枝は動かなかった。痛みなど感じていないかのように、ただ立ち尽くす。
こんなふうに、実の兄に殴られ罵られるのは、初めてではない。
「怜司兄、お願い……お姉ちゃんを叩かないで!」隣の紗良が慌てて口を挟む。「お姉ちゃんがわざと私を突き落としたわけじゃないの……本当に。今回のことはお姉ちゃんのせいじゃない。責めないで……私が不注意だっただけ……」
怜司はたちまち顔を曇らせ、痛ましげに言った。
「紗良、お前はどうして今になってもあいつを庇う? 俺の馬鹿な妹だ。女の子が階段から落ちて、傷跡が残ったらどうする。どれだけみっともないか分かってるのか」
「でも、怜司兄……」
「いい。紗良はいい子にしてろ。もうあいつの肩を持つな。ほら、怜司兄に見せて。どこか打ったか?」
「大丈夫……心配しないで……」
目の前で繰り広げられる「優しい兄と健気な妹」の光景に、千枝は突然、どうしようもなく疲れた。
怜司は「女の子に傷跡が残ったら可哀想だ」と紗良を案じる。
では、さっきは?
何の躊躇もなくコップを投げつけたのは誰だ。
脚はまだ血を流している。傷跡が残るかもしれない。
彼女だって女の子だ。しかも、彼の実の妹なのに。
千枝は幼い頃に家族と離れ、孤児院で育った。のちに祖父母に引き取られ、そこで大事に育てられてきた。
甘やかされていたわけじゃない。それでも、こんな扱いを受けたことは一度もなかった。
怜司が紗良を気遣い終え、ふと視線を戻すと――千枝の整った艶やかな顔に、薄い嘲りが浮かんでいるのが見えた。
途端に不機嫌そうに眉を寄せる。
「その顔はなんだ」
「西園寺千枝。二年前にお前を西園寺家へ連れ戻した時、言ったはずだ。紗良はここで育った。血がつながってなくても、お前は実の妹として扱えって」
「姉なんだから、譲ってやれ。可愛がってやれ。守ってやれ!」
「なのにお前は、この二年で何をした!」
千枝は唇の端に苦い笑みを滲ませた。
二年前、西園寺家が彼女を見つけた時、祖父母はすでに他界していた。
やっと家族ができる――もう独りで生きなくていい。
そう信じて、祖父の生前の友人の誘いを断り、西園寺家へ来た。
この二年、千枝は息を潜めるように暮らした。譲れるものはすべて譲った。何でも紗良に一番いいものを差し出した。
自分は、紗良の後ろを卑屈に付き従い、彼女が要らないものを拾うように生きた。
そうすれば、いつかこの家に溶け込めると思った。
両親と兄たちが、自分を本当の家族として受け入れてくれると。
だが現実は違った。
彼らが偏愛するのは紗良だけ。実の娘である千枝に向けられたのは、尽きない非難と罵倒だった。
ある日、千枝は偶然聞いてしまった。
毒々しく、心底うんざりした声でこう言うのを――
「西園寺千枝なんて、外で死んでくれてたらよかったのに。そうすれば家族は完璧だった」
外で死んでくれてたらよかったのに――。
その言葉を聞いた瞬間、胸がぎゅっと潰れた。大きな手で心臓を握りつぶされるように痛くて、息ができなかった。
自分が何をしたというのか。
どうして家族にここまで嫌われる。
死んでほしいとまで思われるほどに。
だったら、二年前、なぜ連れ戻したのか――。
千枝はそっと目を閉じた。
心が水面のように凪いでいく。これまでにないほど静かで、冷たい平穏。
もういい。
この家はいらない。
この家族も、全部いらない。
なぜか怜司は、千枝が何かを手放したように見えて、胸がざわついた。
彼女の表情は、肩の荷が下りたように澄んでいて――まるで繭を破って生まれ変わった蝶のようだった。
理由もなく焦りが込み上げる。
怜司は脇の鞭を掴み、振り下ろそうとする。
「紗良に叩頭して認めないなら、家法で叩き直してやる!」
だが次の瞬間、その手首が細い手にしっかりと掴まれた。
千枝だ。
――止めた?
「西園寺千枝、お前……!」
怜司は苛立ちを露わにする。二年間、怯えながら媚びるだけで、殴られても黙っていた女が、反抗するなど。
驚愕する兄の顔を見て、千枝は艶やかな顔で薄く笑った。
「言ったはず。私は紗良を突き落としてない」
怜司は鼻で笑う。
「まだ言い訳か? 殴られ足りないんだな!」
「西園寺怜司」千枝の瞳は氷のように冷え、感情の色が消えた。「私が突き落としてない証拠を出せたら――」
「あなたと紗良が、私に跪いて叩頭して謝って」
「……は?」
怜司は耳を疑い、怒りで顔を歪めた。
「俺に跪けだと? ふざけるな! お前……この罰当たりが!」
ソファで成り行きを見物していた紗良は、千枝が殴られるのを期待していた。だが「証拠」という言葉に、瞳の奥に疑念が浮かぶ。
証拠?
あるはずがない。
紗良は内心で冷笑しながら立ち上がり、健気なふりをして言った。
「怜司兄、もういいよ。お姉ちゃんと喧嘩しないで……」
「紗良、庇うな!」怜司は青筋を立てて怒鳴る。「見せてもらおうじゃないか。どんな証拠を出すのか!」
千枝は淡々とポケットに手を入れ、ひとつの物を取り出した。
紗良がそれを見た瞬間、顔色が真っ青になる。
録……録音ペン――?
どうして。
どうして千枝がそんなものを……!
千枝は無表情のまま再生ボタンを押した。
ジジッ、というノイズのあと、わざとらしく弱々しい女の声が流れる。
『お姉ちゃん、この位置ってどう?』
怜司は一発で分かった。紗良の声だ。
続いて、澄んだ女の声。
『紗良、階段のところで何してるの?』
千枝の声――。
そして次の瞬間。
『お姉ちゃん、私が「お姉ちゃんに突き落とされた」って言ったら、怜司兄はどんなふうに罰して、どんなふうに罵るかな?』
