第2章
西園寺怜司はサッと首をひねり、西園寺紗良を振り返った。顔には、信じられないという色がありありと浮かんでいる。
紗良が――あの優しい妹が。
こんな、汚い濡れ衣みたいな言葉を吐くなんて。
西園寺紗良は胸の奥がひゅっと冷え、すぐさま取り繕うように叫んだ。
「怜司兄、違うの! そんなの本当じゃない!」
けれど録音は止まらない。言い逃れの隙すら与えず、淡々と続いていく。
録音ペンの向こうで、西園寺千枝が諭すように言った。
『西園寺紗良、本当にやるの?』
続いて、紗良の声。冷笑を含んだ、挑発的な口調。
『お姉ちゃん、止めたって無駄。知ってるでしょ。怜司兄はいつだって私のことしか信じない。絶対にお姉ちゃんなんて信じないよ』
そして、わざとらしい泣き声が重なる。
『ううっ、怜司兄、早く来て! お姉ちゃんが私を階段から突き落とそうとしてる! 私が西園寺家の娘にふさわしくないって、この家にいる資格がないって……追い出すって言ってるの! 怖いよ……怜司兄、助けて……!』
聞き終えた瞬間、怜司にもう疑いようはなかった。
西園寺千枝は、紗良を突き落としていない。
全部――西園寺紗良の自作自演だ。
わざわざ階段口まで行き、突き落とされたふりをして、千枝に泥を塗った。千枝は最初から最後まで、潔白だった。
それなのに自分は、実の妹を疑い、傷つけた。
怜司は呆然と千枝を見つめた。だが数秒後、眉間に皺が寄る。
「西園寺千枝……誤解だったとしても、最初からどうしてちゃんと説明しなかった?」
その言葉に、千枝の瞳の奥へ、気だるい嘲りが滲んだ。
ほら。
間違えたと分かっても、責める矛先は自分じゃない。彼女だ。
「西園寺怜司。まだ老ける歳でもないのに、先に記憶が衰えたの?」
「……っ」
怜司は言葉を失った。
数分前、千枝は確かに言おうとしていた。「私は突き落としてない」と。
だが自分はどうした。
話も最後まで聞かず、コップを掴んで投げつけた。ガラスで切れた脚は、いまも血が滲んでいる。
怜司はぎこちなく視線を逸らし、隣の紗良へ向けた。目には失望が浮かぶ。
紗良は怯えたように目を赤くし、涙をぽろぽろ落とした。
「怜司兄、私が悪かった! お姉ちゃんを陥れちゃいけなかった……でも……でも、私、あなたとパパとママを失いたくなかったの……!」
怜司が息を呑む。
「……何だって?」
紗良は「まだ挽回できる」と悟ったのか、さらに悲痛な表情を作った。涙は糸の切れた珠のように落ち続ける。
「私、小さい頃から西園寺家で育って……ずっと怜司兄を本当のお兄ちゃんだと思って、パパとママも本当の親だと思ってた……」
「お姉ちゃんが帰ってきてから、いつも怖かったの。あなたたちが私を要らないって言うんじゃないかって……捨てるんじゃないかって……だって、お姉ちゃんのほうが綺麗で、血のつながりもある……」
「失うのが怖くて、魔が差しただけなの! 怜司兄、私、もう二度としない……!」
怜司は涙に弱い。すでに心が揺らいでいたところへ、この言葉だ。
紗良に悪意があるはずがない。
家族が大事すぎただけ――。
怜司は勝手に結論を出し、千枝へ向き直る。
「紗良は一時の気の迷いでお前を陥れただけだ。どうせお前も大した怪我じゃないだろ。姉なんだから大目に見ろ。今回だけは許してやれ!」
千枝は、笑いそうになった。
実の兄は、妹が冤罪を着せられたと分かっても守らない。
「大目に見ろ」と言う。
なんて滑稽。
この家に一秒もいたくない。
西園寺家の偽善の顔を、もう見たくない。
怜司は自分が間違っているなど微塵も思わず、傲慢に言い放つ。
「西園寺千枝、いつまでも根に持って許さないなら、家から追い出してやるぞ!」
千枝の整った顔から表情が消えた。刃のように冷たい視線が、怜司を刺す。
「西園寺怜司。追い出す必要なんてない」
「今日から、私は西園寺家と縁を切る」
「この家に、もう一分だっていない」
そう言い捨てると、千枝は自室へ戻り、荷物をまとめ始めた。
悲しいことに、二年住んでも持ち出すものは少ない。スーツケースひとつも埋まらない。
戸籍もいまだ西園寺家に入っていない。ちょうどいい――もう必要ない。
書類を揃え、ガラスで切れた脛の血をティッシュで拭う。消毒する暇もなく、絆創膏をいくつか貼り、長いワンピースに着替えて傷を隠した。
そしてスーツケースを引き、二年住んでもなお冷え切った部屋を出る。
怜司は、彼女がスーツケースを持って出てきてようやく理解した。
これは癇癪ではない。本気だ。
「西園寺千枝! 考え直せ! 今日出て行ったら二度と戻れないぞ! 後悔するなよ!」
千枝は振り向かない。言葉を一音ずつ叩きつける。
「絶対に後悔しない」
紗良は内心、歓喜で胸が弾けそうだった。
やっと、千枝が消える。
これから西園寺家のすべては自分のもの――愛情も、財産も。
だが表情は心配そうに整える。
「怜司兄、追いかけてお姉ちゃんを止めて……女の子が家を出たら危ないよ。いじめられたらどうするの……」
「放っておけ」怜司は鼻で笑う。「数日もすれば泣きついて戻ってくる。その時に叩き直してやる」
その瞬間、外から護衛が慌てて駆け込んできた。
スーツケースを引いて出て行く千枝など眼中にない。西園寺家で「本物の令嬢」に地位はない。敬う必要もない――皆が知っている。大切にされているのは紗良のほうだ。
護衛はリビングへ転がり込むように報告する。
「怜司様! 紗良様! お客様です! 門の前に車が……黒瀬家の車に見えます!」
黒瀬家――?
怜司と紗良は目を見開き、互いの顔を見た。驚愕と狂喜が入り混じる。
黒瀬家といえば帝都屈指の名門。
西園寺家も上流ではあるが、黒瀬家の前では蛍火が月に挑むようなものだ。
千年単位の底力、広がる権勢。比べることすら烏滸がましい。
西園寺家は長年、黒瀬家との縁を求めてきた。だが何度手を伸ばしても届かなかった。
それが今日、向こうから来た?
「迎えに出るぞ!」怜司は興奮で手を震わせ、服を整え、護衛に先導させた。
紗良もスカートを摘まみ、頬を恥じらいの紅に染めて後に続く。
今日来たのは黒瀬家の誰?
まさか――あの男……?
