第3章

西園寺怜司と西園寺紗良は小走りで駆け、なんと西園寺千枝より先に邸宅の門前へ辿り着いた。

用心棒の言うとおり、控えめながらも圧倒的な高級感を纏った黒塗りの車が、路肩に静かに停まっている。

ナンバーを目にした瞬間、西園寺怜司の胸がどくんと鳴った。鼓動がやけに速い。

帝都でこのナンバーを使えるのは、たった一人――黒瀬冬真。

黒瀬冬真。若くして黒瀬家の舵を握り、黒瀬グループ現総裁として君臨する男。資産は兆単位、帝都の頂点に冠する王――そんな存在だ。

その黒瀬冬真が、わざわざ西園寺家まで足を運ぶだなんて。これ以上の栄誉があるだろうか。

西園寺怜司は頬を緩めたまま車へ駆け寄り、腰を低くして声を作る。

「黒瀬社長、ようこそお越しくださいました! ご来訪とは存じ上げず、失礼いたしました。どうかご容赦ください!」

だが、待てど暮らせど反応がない。

降りてこない。返事もない。

「……え?」

笑みが、ぴしりと固まった。

西園寺紗良はさっと髪を指で整え、いかにも可憐な仕草で車の前へ進む。控えめに頬を染め、柔らかな声で呼びかけた。

「黒瀬様、本日はわざわざお越しくださり……ご用件は、いかがなさいましたの?」

それでも、沈黙。

西園寺怜司と西園寺紗良は顔を見合わせた。ナンバーを見間違えるはずがない。黒瀬冬真の車だ。なのに、挨拶を重ねても一言も返ってこないとは――。

その気まずさを切り裂くように、助手席のドアがカチャリと開いた。

降りてきたのは、秘書然とした男。

西園寺怜司は一目で分かった。黒瀬冬真の特級補佐、長崎健。

(なるほど……)

西園寺家の格では、黒瀬冬真本人に直に相手をしてもらうのはまだ早い。だから補佐が降りてくる。筋は通っている。

しかも長崎健は黒瀬冬真の首席特助だ。ここで繋がりを作れれば、西園寺家にとっては大きな追い風になる。

西園寺怜司は即座に笑顔を貼りつけ、身を乗り出す。

「長崎さん、こんにちは。本日は――」

だが、長崎健は西園寺怜司を一瞥すらしない。

まっすぐ、少し離れた場所にいる西園寺千枝へ向かって歩いていく。

その光景に、西園寺怜司と西園寺紗良は頭から冷水を浴びせられたように固まった。

長崎健は西園寺千枝の前で足を止め、丁寧に腰を折る。

「西園寺さん、こんにちは。黒瀬鶴臣老先生のご依頼で、お迎えに参りました。黒瀬家へお越しいただけますでしょうか」

黒瀬鶴臣――。

その名を聞いた瞬間、西園寺千枝の胸にふっと温かいものが広がった。黒瀬のおじいちゃん。

幼い頃に家族と離れ、孤児院で育った自分を、祖父母が引き取ってくれた。あの頃、祖父の親友として家を訪れていたのが黒瀬鶴臣だ。小さな自分を抱き上げてくれたこともある。

長崎健の手には数珠があった。見覚えがある。黒瀬鶴臣が長年身につけていたものだ。

本当に、黒瀬のおじいちゃんの使いなのだ。

年長者からの招きは断りづらい。西園寺千枝は小さく頷いた。

「……分かりました。お手数をおかけします」

「とんでもございません。西園寺さん、どうぞ」

長崎健はにこやかにスーツケースを受け取り、後部座席のドアを開ける。

「こちらへ」

西園寺千枝が身を屈めて乗り込もうとした、その瞬間――車内にもう一人いることに気づいた。

男。

後部座席で長い脚を組み、白いシャツは最上段まできっちり留められている。清冽で、どこか禁欲的。手には紙の書類。白く長い指、浮き立つ関節。

ドアの音に、男の視線が書類から外れた。

そして、西園寺千枝と真正面から目が合う。

闇を湛えた、深い瞳。

「俺は黒瀬冬真。祖父の代わりに迎えに来た」

低く掠れた声。なのに、どこか気怠げで柔らかい。初春の細雨が湖面を撫でるような響きだった。

黒瀬冬真――。

その名を聞いた途端、幼い記憶が一気に押し寄せる。

祖父が決めた、いわゆる許嫁。相手は黒瀬鶴臣の孫、黒瀬冬真。

目の前の男が――その相手?

つまり、自分の……婚約者?

西園寺千枝が乗り込むと、黒い車は矢のように走り出し、西園寺家の門前から一気に遠ざかった。

西園寺怜司と西園寺紗良は呆然と立ち尽くし、車が見えなくなっても動けない。

自分たちが必死に縋りつこうとした黒瀬家が、迎えに来たのは西園寺千枝だった?

しかも長崎健が、あれほど恭しく頭を下げて。

自分たちには一瞥もくれず、まるで路傍の塵のように扱った。

――どうして、こんなことに。

西園寺紗良は眉をきつく寄せる。取り繕っていた温和な表情は、もう保てなかった。

西園寺千枝に「負ける」ことほど、彼女が憎むものはない。今の一幕は、顔を地面に叩きつけられ、踏みつけられたのと同じだった。

車内。

西園寺千枝は静かに座り、隣の男をそっと盗み見る。

あの「許嫁」の約束を、覚えていないといい。

そんな時代錯誤な取り決め、今さら現実味がなさすぎる。

だが黒瀬冬真は、彼女の考えを見透かしたように眉をわずかに上げ、喉を鳴らして言った。

「覚えてる」

西園寺千枝「……っ」

嫌な予感ほど、当たる。

西園寺千枝と黒瀬冬真の関係は、ひと言では片づかない。

祖父母に引き取られてからの暮らしは決して貧しくなかった。祖父は特別な立場にあり、黒瀬家前当主の黒瀬鶴臣とも深い付き合いがあった。

黒瀬鶴臣はよく孫の黒瀬冬真を連れて祖父の家を訪れ、そのたびに西園寺千枝は黒瀬冬真と顔を合わせた。

いわゆる幼馴染。幼い頃は仲も悪くなかった。だからこそ、祖父と黒瀬鶴臣が話し合い、二人の婚約が決まった。

当時の西園寺千枝には「許嫁」が何を意味するのか分からなかった。

だが少し大きくなって意味を理解してからは、黒瀬冬真を見るたびに居心地が悪くなった。

黒瀬冬真も気に入らなかったのか、態度がだんだん妙に刺々しくなる。わざと突っかかってくることも増えた。特に、近所の男の子と遊んでいる時など、口を開けば棘だらけで、嫌味ばかり。

その積み重ねで、西園寺千枝の中の嫌悪は膨らみ、二人は顔を合わせれば火花が散る犬猿の仲になった。

高校に上がった頃、西園寺千枝の反抗心は頂点に達した。祖父に婚約破棄を願い出たのだ。クラスの男子を好きになった、と。

それを知った黒瀬冬真は彼女を部屋に追い詰め、底なしの氷のような目で吐き捨てた。

「頭に水でも入ったのか。誰でも好きになれると思うな」

あんな陰鬱な黒瀬冬真を見たのは初めてだった。大喧嘩になり、関係は完全に決裂した。

その後、黒瀬冬真は留学し、二人は会わなくなった。

さっき車に乗り込んだ時、西園寺千枝は彼を一目で認識できなかった。

記憶の中の少年とは、ずいぶん変わっていた――。

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