第4章
車窓の外の街並みが、矢のように後ろへ流れていく。
西園寺千枝が気づいたのは、乗り込んでからというもの、黒瀬冬真が一度も書類に目を落とさなくなったことだった。骨ばった指が、左手首の目立たない傷跡を、ゆっくりとなぞっている。
まるで――噛み跡。
彼女の視線に気づいたのか、黒瀬冬真は気だるげに口を開く。含みのある言い方で。
「物分かりの悪い子猫に噛まれた」
西園寺千枝「……」
何かを思い出したように、彼は眉を軽くつり上げる。
「歯も口も達者でさ。けっこう凶い」
西園寺千枝「……」
誰が子猫よ。
誰が凶いのよ。
その手首の噛み跡は、子どもの頃に二人が喧嘩したとき、千枝が冬真の手首を掴んで噛みついたせいで残ったものだ。
まさか、こんなに時間が経っても、はっきり覚えているなんて。
それに――傷跡を消す薬でも塗らなかったの? どうしてまだ残ってるの。
毎日それを目にするたび、心の中で一回ずつ恨みを更新してたりして……?
千枝は鼻先を指でこすり、気まずさをごまかすように窓の外へ視線を逃がした。
黒瀬冬真はそれ以上は何も言わない。ただ、彼女の白い横顔を、のんびりと眺めている。指先は何度も何度も噛み跡を撫で――まるで、撫でているのが傷跡だけじゃないみたいに。
見られているのは分かる。
男の視線が肌を刺して、落ち着かない。
千枝は居心地の悪さに耐えきれず、振り向きかけて――「見ないで」と言おうとして――
言葉が喉で止まった。
幽く、底の見えない黒い瞳と、真正面からぶつかったから。
黒瀬冬真は眉尻をわずかに上げ、面白がるような声で、だるそうに言う。
「なに。千枝、また噛みたいの?」
千枝――。
その呼び方が、男の唇から零れるだけで、妙に甘く、絡みつく。
千枝の心臓が、ふっと拍を外した。
子どもの頃、冬真はたしかによくそう呼んでいた。
……って、誰が噛みたいっていうのよ!
ほどなく車は、黒瀬家の邸宅へ到着した。
鉄の装飾門がゆっくりと左右に開き、車が敷地内へ滑り込む。
車窓越しに見える庭園は、息をのむほど端正だった。少し先には広々とした人工湖があり、その脇には花壇。植えられているのは、いかにも高価そうな花や草木ばかり。
さらに奥には、葡萄畑と果樹園まで見える。
西園寺家の屋敷より、ずっと大きい。
車は噴水の前で停まった。
噴水池のそばには、使用人たちに囲まれた杖の老人が、落ち着かない様子で待っている。
白髪混じりで杖をついているが、背筋はまだしゃんとしていて、目には長い年月が沈んでいた。
久しぶりでも、一目で分かった。
黒瀬のおじいちゃんだ。
千枝は降りるなり駆け寄り、目尻を潤ませて挨拶する。
「黒瀬おじいちゃん、お久しぶりです!」
「おお! よく来た、よく来た!」黒瀬鶴臣はようやく会えたとばかりに、親しげに千枝の手を握る。「千枝や。待ったぞ、ほんとに待った!」
「おじいちゃん、最近お身体は……?」
「心配するな。まだまだこの老いぼれは丈夫だ!」鶴臣は千枝をじっと見て、目を細める。「痩せたなあ……痩せた。でも、昔のまんま綺麗だ」
千枝がふわりと笑うと、濡れた瞳も一緒に弧を描いた。
千枝は小さい頃から整った顔立ちだった。特に目が綺麗だ。澄んでいて、光を含んで、月明かりの泉みたいにきらめく。星空ごと映し込んでしまいそうなほど。
鶴臣はますます嬉しそうに頷き、杖を使用人へ預けると、片手で千枝を、もう片手で冬真を引いた。
「さあさあ、入って話そう。客間へ」
客間に通され、三人はソファに腰を下ろした。
使用人が茶を運んでくる。
鶴臣は千枝の手を握ったまま、深く息を吐く。
「この数年、わしは身体を悪くしてな。療養で国外に出ていた。良くなったり悪くなったりで、なかなか戻れんかったが……最近ようやく落ち着いて、帰ってこられた」
「そしたら、帰国してすぐに聞いたんだ。西園寺の連中が、お前に冷たくしているって。放っておけるわけがない。だから冬真に迎えに行かせた」
「千枝や。西園寺が居づらいなら、もうあそこにいる必要はない。ここがお前の家だ。わしがお前の家族だ」
久しぶりに浴びる、まっすぐな情と気遣い。
千枝は鼻の奥がつんとして、甘い声にかすかな震えが混じった。
「おじいちゃん……」
「いい子だ、いい子だ」鶴臣は千枝の手の甲を、いたわるようにぽんぽんと叩く。「この二年、辛かったろう」
そして、ふと思い出したように話題を変える。
「そうだ千枝、ほら」鶴臣は千枝に冬真を示す。「冬真だ。小さい頃、よく一緒に遊んでたろ。お前、『冬ちゃん』って呼んでた。覚えてるか?」
冬ちゃん――。
子どもの頃ならともかく、今それはさすがにむず痒い。
千枝は礼儀の笑みを作り、小さく頷いた。
冬真は千枝の隣に座ったまま、端正な顔に感情を出さない。
伏せた睫毛の下、白磁の湯呑を手に取り、鶴臣へ茶を注ぐ。その何でもない所作すら、妙に絵になる。
鶴臣が探るように尋ねた。
「千枝や。冬真のこと、どう思う?」
千枝は言葉に詰まる。
どうって……さっき車の中でもほとんど会話はなかったし、冬真は昔のことを根に持っていそうだ。
それに、彼が自分を好きなはずもない。
自分だって、黒瀬冬真が好きなわけじゃ――。
鶴臣は返事を待てず、さらに身を乗り出す。
「千枝、ほら。早く言ってくれ。冬真、どうだ?」
千枝は睫毛を落とし、曖昧に逃げた。
「……いい人だと思います」
沈黙していた冬真が、その答えに、ほんのわずか眉を上げた。
彼は千枝を見た。
深く静かな眼差しが、数秒だけ彼女の上に留まり――すっと外れる。
鶴臣はぱっと顔を明るくする。
「そうか、そうか! それなら安心だ! これでわしも、お前たちを一緒にさせられる!」
千枝は目を瞬いた。
「……おじいちゃん、今なんて」
一緒に――?
鶴臣は豪快に笑う。
「昔、わしとお前の祖父さんでな、お前たちの縁談を決めた。いやあ、やっぱりお似合いだ。才色兼備と眉目秀麗、ってやつだな」
「そうだ千枝。思い立ったが吉日だ。今日このまま――籍を入れてしまうのはどうだ?」
千枝の背筋がひやりとした。
綺麗な瞳に驚きが浮かび、慌てて首を振る。
「おじいちゃん、それは……さすがに……!」
鶴臣は何かを思い出したように、ふっと表情を曇らせる。
「千枝や……わしは身体が万全じゃない。いつどうなるか分からん。お前が冬真ときちんと決めてくれたら、わしも向こうで祖父さんに顔向けできる……」
「安心しろ。何があっても黒瀬家はお前の味方だ。冬真は、お前の支えになる」
真心からの言葉が、胸に重く落ちる。
断る言葉が、喉の奥で引っかかったまま出てこない。
千枝は隣の男へ視線を向けた。
冬真なら、きっと断ってくれる。結婚なんて望むはずがない。子どもの頃から理由もなく突っかかってきて、すぐ機嫌を悪くして――。
冬真はその視線を受け取ると、湯呑を静かに置いた。
そして鶴臣をまっすぐ見て、驚くほど真面目な顔で言った。
「いいよ、じいちゃん。今日、入籍しよう」
西園寺千枝「……は?」
