第5章
一時間後。
西園寺千枝は黒瀬冬真と並んで市役所を出た。手の中の婚姻届を見つめたまま、深い思考の沼に沈む。
――私、なんで急に結婚してるの?
――なんで急に……夫ができてるの?
腑に落ちないまま、千枝は冬真の袖をつかんだ。小さな顔いっぱいに「わけが分からない」が浮かんでいる。
「ねえ、なんで急に結婚するって言ったの?」
冬真は彼女の手元をちらりと見て、低く掠れた気だるい声で言う。
「さっき祖父が言い出したとき、千枝が俺を見た。あれ、同意しろって合図じゃなかったのか」
千枝は言葉を失った。
「……私、いつ『出せ』なんて言った? あれは『断って』って意味だったんだけど」
冬真はそこでようやく気づいたように、眉を寄せる。
「そういうことか。俺が勘違いした……千枝、怒ってないよな?」
西園寺千枝「……」
なんか、言い方が引っかかる。
この男、またわざとやってない? と疑いたくなる。
その夜、寝る前。
千枝は黒瀬のおじいちゃんに「夫婦なんだから」と押し切られ、黒瀬冬真の寝室へ放り込まれた。
部屋にあるベッドは一つだけ。
千枝はこめかみを押さえる。
幸い、冬真は緊急のビデオ会議があるらしく、仕事部屋へ向かった。
今のうちだ。
千枝は先に風呂に入ることにした。何より、ふくらはぎに残ったガラスの切り傷を、まだきちんと手当てできていない。
浴室に入り、シャワーをひねる。
脚の細かな傷はまだ塞がっていない。水が当たった瞬間、じくりと鋭い痛みが走った。
でも仕方ない。絆創膏は防水じゃない。今日は我慢するしかない。
熱い湯が頭上から降り注ぎ、丸一日の疲れまで洗い流していく。
……そして、洗い終えてから気づいた。
着替えを持って入るのを忘れてた。
でも冬真はいない。外に出て取ってくればいい。
千枝はバスタオルを手に取り、体にざっと巻きつける。浴室のガラス扉を引いた。
次の瞬間――
千枝は金縛りに遭ったみたいに、その場で固まった。扉を開けた姿勢のまま、指一本動かせない。
窓際に立つ男。
黒瀬冬真が、そこにいた。
――いつ戻ってきたの!?
シャワーの音が大きすぎて、気配に気づかなかったのだろう。
扉の開く音に冬真が反射的に振り向く。
そして目に入ったのは、裸足の千枝だった。
濡れた黒髪が頬に貼りつき、雪みたいに白い肌をいっそう際立たせる。触れたら壊れそうなほど、薄くて柔らかい白さ。
バスタオルは巻いているのに、どこか心許ない。艶のある鎖骨がのぞき、胸元の柔らかな曲線が、ちらりと影を作る。
丈は太もものあたりまで。そこから下は、視線をさらっていく白い脚がまっすぐ伸びていた。
目に毒――そう言いたくなるほど。
冬真の、いつも淡々としている顔がほんの一瞬だけ止まる。
それから、眉がごくわずかに持ち上がった。
千枝は我に返り、バンッと勢いよく扉を閉めて浴室へ引っ込んだ。
――最悪。
――死にたい。これ、社会的に終わった。
穴があったら入りたい。いや、掘ってでも入りたい。
そのとき、浴室の向こうから男の低い声が届く。
「何か、手伝うことあるか」
西園寺千枝「……」
絶対、察してる。
着替えを持ってきてないって。
千枝は喉を鳴らして唾を飲み込み、乾いた声で言った。
「あの……すみません。着替え、渡してもらえますか。ベッドの横に置いてあるやつ……お願いします」
冬真は視線を向ける。確かに、ベッド脇の椅子にあった。
黒いシルクのネグリジェと――下着一式。
冬真のまぶたが、ぴくりと跳ねる。
それでも何事もなかったようにそれらを手に取り、扉の隙間から差し入れた。
着替えを済ませ、千枝は気まずさを抱えたまま浴室を出る。
冬真は相変わらず淡々としていて、さっきの件など気にしていないように見えた。
そのおかげで、千枝の胸の痛みも少しだけ引く。
シャワーを浴びながら、千枝はずっと考えていた。
自分と黒瀬冬真は、どう考えても合わない。子どもの頃から、顔を合わせれば反発し合ってきた相手だ。
千枝は深く息を吸い、ゆっくり言った。
「黒瀬冬真。私たち……離婚しよう」
言い終えた瞬間、冬真の目が細くなる。
沈黙が落ちた。しばらくして、彼は低く言う。
「……まだ、高校の同級生のことが好きなのか」
西園寺千枝「???」
何の話?
千枝はしばらく考えて、ようやく思い当たった。
昔、祖父に婚約破棄を頼んだとき、「クラスの男子が好きになった」と言った、あの件だ。
――え、まだ覚えてるの?
どんだけ昔の話よ。
冬真の黒い瞳の奥で、暗い影が揺れる。声は冷えた刃みたいに鋭い。
「そこまでして、俺と結婚したくないのか」
千枝は心底わけが分からない。
むしろ、あなたがしたいの?
冬真は彼女を見据えたまま、感情の読めない顔で言った。
「なら、離婚協議書を作らせる。期限は一年。一年後に離婚だ」
一年。
千枝は一瞬きょとんとしたが、すぐに理解した。
一年あれば、黒瀬のおじいちゃんも今ほど強硬には反対しないはず。
「……分かった」
一年の契約結婚。
それが終われば、自分は黒瀬冬真と別の道を行ける。
「じゃあ、今夜は……」千枝はベッドを見た。ひとつしかない。どうするの、これ。
冬真は深い目で彼女を一度だけ見て、踵を返す。
「俺は客間で寝る」
バタン、とドアが閉まる。
部屋に残ったのは千枝だけだった。
さっき出ていく直前の、あの視線。
子どもの頃みたいに、どこか含みがあって、どこか意味深で――千枝には読めない。
やっぱり無理だ。
この天敵と、平和にやっていくなんて。
しばらくして、コンコンとノックの音がした。
千枝が扉を開けると、屋敷の老執事が立っていた。
燕尾服に身を包み、穏やかな顔で小さな薬膏を差し出す。
「西園寺さん。脚をお怪我なさっていましたね。こちら、よく効きますし、跡も残りにくい品です」
気づいてくれていたことに、胸がじんと温かくなる。
「ありがとうございます」
老執事は慈しむように笑った。
「西園寺さん。こちらは旦那様がご用意されたものです」
旦那様――当然、黒瀬冬真のことだ。
千枝は固まった。
老執事は妙に実直だった。言われた通りを一言一句違えず口にする。
「旦那様はこう申しておりました。『薬を西園寺千枝に届けて。俺が言ったってことは言わなくていい』と」
西園寺千枝「…………」
老執事はそれだけ言うと、何事もなかったように踵を返して去っていった。
千枝は手の中の薬膏を見つめる。
胸の奥が、変にざわつく。
――これ、黒瀬冬真が……?
そのとき、スマホがぶるっと震えた。
西園寺紗良からのメッセージ。
[お姉ちゃん、今大丈夫? 今夜はどこに泊まるの? 黒瀬家にいるの?]
読み終えた瞬間、千枝の心に冷たい笑いが広がる。
まだ演じるつもり?
これまでの自分は、家族が欲しくて、紗良に何もかも譲ってきた。
その結果が、これだ。
――今日からは違う。
もう西園寺紗良には譲らない。
西園寺家の人間に、二度と頭を下げて生きたりしない。
私は、私のために生きる。
