第6章
翌朝。
やわらかな陽光がカーテンの隙間から差し込み、部屋の空気を淡く温めていた。
西園寺千枝はまつ毛を小さく震わせ、ゆっくりと眠りの底から浮上する。見上げた先にあるのは、見慣れない天井。ぼんやりと数秒――そこでようやく思い出した。
ここは黒瀬冬真の部屋だ。
昨日、黒瀬冬真と婚姻届を出した。これからは、この家で暮らすことになる。
ベッドから起き上がると、ふくらはぎの傷はすでに塞がり始めていた。黒瀬冬真が老執事に持たせて寄越した軟膏、思った以上に効き目がある。
朝食の席では、黒瀬鶴臣が上座に座り、西園寺千枝は黒瀬冬真の隣に腰を下ろした。
黒瀬鶴臣は二人を見ているだけで嬉しいらしく、顔をくしゃりと綻ばせる。
「冬真、近いうちに日取りのいい日を選べ。千枝との式を挙げるんだ。ついでに結婚のことも公表しよう」
黒瀬冬真は小さく頷いた。
「分かった」
西園寺千枝はぎょっとして、テーブルの下でそっと彼の脚をつつく。
黒瀬冬真の呼吸が一瞬止まった。視線を落とすと、千枝の脚が軽く触れている。薄い布越しに伝わる柔らかさと体温が、妙に鮮明だった。
黒瀬冬真の目がわずかに翳る。
彼は顔を傾け、視線で問う――どうした。
千枝はさりげなく身を寄せ、耳元で声を潜めた。
「昨日、離婚の合意書にサインしたばかりでしょ。一年後に離婚するのに、結婚を公表したら……あとが面倒になる」
黒瀬冬真は眉間にしわを寄せる。
千枝はさらに小声で続けた。
「だから、式はまだしなくていいし、結婚のことも公表しなくていいと思う。どう?」
黒瀬冬真は深い眼差しでしばらく彼女を見つめ、やがて無表情のまま視線を戻した。
千枝はすぐに黒瀬鶴臣へ向き直り、目を細めて笑う。
「おじいさま、式のことは少し落ち着いてからで。まだ慌てなくても大丈夫です」
黒瀬鶴臣が慌てないはずがない。孫の顔を見るのを、どれほど待ちわびてきたことか。
「千枝、結婚は若い二人のことだ。少し先にするのは構わん。だが、あまり待たせるなよ」
千枝はおとなしく笑って、別の話題をいくつか挟み、その場はひとまず流した。
黒瀬鶴臣は景園には住んでいない。朝食を終えると本宅へ戻っていった。
今日は週末で、黒瀬冬真は出社しない。
彼はリビングのソファに腰を下ろし、薄手のゆったりしたニットを着て、経済誌を指先でめくっている。骨ばった長い指、無駄のない所作。気怠げなのに品がある――そんな矛盾が、やけに様になっていた。
千枝は昨夜の軟膏を思い出し、目をくるりと動かす。二階へ駆け上がって軟膏を取ってくると、男の前に立ち、咳払いをひとつ。
「これ、よく効くみたい。手首、噛み跡があるでしょ。塗ってみたら?」
黒瀬冬真は雑誌から目を上げない。
「いらない」
千枝はぱちりと瞬きをした。
「その噛み跡、ずっと残すつもり?」
ようやく彼の視線が雑誌を離れ、瞼が持ち上がる。声は冷たく淡々としていた。
「離婚したいって言ってるのに、そこまで気にするのか」
千枝は言葉に詰まる。
「……」
黒瀬冬真は彼女を見据えた。熱を帯びた視線。黒く深い瞳が、逃げ場を塞ぐ。
「俺が言ったらどうする。……この噛み跡、ずっと残しておきたいって」
千枝は目を丸くした。
「……は?」
どんな趣味なの、それ。
自分はそこまで強く噛んだ覚えはない。なのに、まだ消えていないなんて。
塗らないなら仕方ない。千枝は無理強いせず、踵を返して立ち去ろうとした――その瞬間。
黒瀬冬真が、ゆっくりと脚を伸ばした。
千枝の意識は手の中の軟膏に向いていた。次の一歩で何かに引っかかり、体がふっと浮く。バランスを失ったまま、黒瀬冬真のほうへ倒れ込んだ。
次の瞬間、硬い腕に受け止められる。
男の胸に、ほとんど覆いかぶさる形で落ちた。密着。温かく、引き締まった胸板の感触が、容赦なく伝わってくる。
黒瀬冬真は片腕で彼女の腰を抱き、見下ろした。
「大丈夫か」
距離が近すぎる。言葉と一緒に落ちる薄熱い息が首筋を撫で、柔らかな肌にぞくりとした痺れを走らせた。
千枝はびくんと震え、耳たぶが一気に熱くなる。
「……あ、ありがとう!」
慌てて体を起こし、礼だけ言うと、居たたまれないまま背を向けて駆け出した。
逃げていく背中を見送りながら、黒瀬冬真は眉をわずかに上げる。何事もなかったように、つまずかせた脚をゆっくり引っ込めた。
ちょうどリビングに入ってきた老執事は、その光景に目を疑った。
――今の、旦那様がわざと脚を……?
部屋へ戻った千枝は首元に手を当て、あの痺れが引くのを待ってから、長く息を吐いた。
軟膏をドレッサーの上に置いたところで、スマホがぶるぶると震える。届いたのは一通のメッセージだった。
『「一緒に踊ろう!」一次審査通過のお知らせ。1週間後の二次審査にご参加ください。テーマは「純白」です。ご健闘をお祈りいたします』
千枝は危うく忘れるところだった。
少し前、西園寺紗良が和風舞踊のコンテストに出たいと言い出し、彼女を巻き込んで一緒に応募したのだ。
紗良は踊りに才能があり、十年以上稽古も積んでいる。自信満々だった。千枝が踊れると聞くと、わざわざ「姉妹で一緒に」と持ちかけてきたが、狙いは分かりきっている。
千枝を引き立て役にして、自分を「高貴な白鳥」に見せたいだけ。
それでも当時の千枝は、西園寺家の人間に気に入られたくて仕方がなかった。紗良の言うことに逆らえず、言われるがままに申し込んだ。
一次審査では、紗良がわざとちぐはぐな衣装を千枝に着せた。対比は残酷なほど鮮やかで、紗良は天女のように映え、あっさり首位を取った。
けれど千枝だって、幼い頃から踊りを学んできた。祖母に手ほどきを受け、所作は骨の髄まで染みついている。かつて学校の小さな発表で少し踊っただけで、桐生という舞踊講師に見出され、弟子にしたいと言われたこともある。
どんな衣装でも、踊りは踊りだ。形にはできる。
――それでも、千枝はわざと下手に踊った。
踏み台にされても構わない。頭を下げてでも、西園寺家の誰かが振り向いてくれるなら。そう思っていた。
なのに、返ってきたのは実の兄たちの冷たい嘲笑だけだった。
身の程知らずだ。西園寺家の恥さらしだ。
紗良のほうが千倍も上だ。お前は紗良の足の指一本にも及ばない――。
メッセージを見つめ、千枝はわずかに目を見開く。
自分も、一次を通った?
ということは、二次でまた紗良と顔を合わせることになる。
千枝の目尻がきゅっと上がり、紅い唇が弧を描いた。
いい。見せてもらおうじゃない。今度も紗良が一位を取れるのか。
テーマは「純白」。古典舞踊の部門だ。
古典舞踊は踊れる人間が多い。だが、「綺麗に踊れる」人間は少ない。
千枝は気持ちを沈め、テーマに沿った舞台構成を組み立てた。あとは、ひたすら稽古。汗を重ねるだけ。
黒瀬冬真は、彼女が大会に出ると聞いても何も言わなかった。
老執事はすでに見抜いている。旦那様は西園寺さんを縛る気などない。好きにやらせて、背後から支える――そんな構えだ。
そして一週間後。
千枝は時間通りに会場へ向かった。
控室へ入ろうとしたところで、正面から西園寺紗良と西園寺怜司が現れる。
さらに二人のそばには、スーツを着こなした端正な男が立っていた。
千枝は冷めた目で見やる。
――兄、西園寺直哉。
