第7章
西園寺千枝の姿を見つけるなり、西園寺紗良は駆け寄ってきた。顔いっぱいに心配を貼りつけて、すがるように言う。
「お姉ちゃん、この前のことは私が悪かった。だから……西園寺家に戻ってきて? 女の子が一人で外にいるなんて危ないよ」
西園寺怜司が鼻で笑った。
「紗良、お前は構うな。あいつが勝手に西園寺家と縁を切るって騒いだんだ。外で野垂れ死にしようが、自業自得だろ」
その言葉に、千枝の目がすっと冷える。紅い唇が薄く吊り上がり、氷みたいな嘲りが滲んだ。
「死なずに済んで、残念だったわね」
「……っ!」
怜司の目に怒りが燃え上がる。こいつ、本当に変わった。以前みたいにへこへこ媚びて、顔色をうかがう影がどこにもない。
いまの西園寺千枝は、全身に棘を生やしたみたいだった。
怜司は隣の西園寺直哉を一度見て、深く息を吸う。まるで最後通牒でも突きつけるように。
「西園寺千枝。いまここで謝って、素直に戻ってくるなら、西園寺家はまだお前を置いてやる。だが、このまま意地を張るなら――」
「そのままがいい」
千枝は冷たく言い切って遮り、もう相手をする気もなく踵を返した。
怜司が咄嗟に腕を伸ばして行く手を塞ぐ。目を吊り上げ、怒気を露わにする。
「西園寺千枝! その態度はなんだ! 兄に対する敬意ってものがないのか!」
兄への敬意?
妹として扱ったこともないくせに、都合のいい時だけ兄面をする。滑稽すぎて、笑いも出ない。
千枝は怜司をまっすぐ見た。
「西園寺怜司。私はもう西園寺家と縁を切った。あなたに私へ何かを要求する資格なんてない」
それから、目の前に突き出された腕を一瞥する。声は刃のように冷え切っていた。
「どいて」
怜司の顔色が一気に暗く沈む。今にも怒鳴り散らしそうになった、その時。
さっきから黙っていた西園寺直哉が、低く名を呼んだ。
「西園寺千枝」
千枝が振り向くと、そこには冷たさの奥に露骨な嫌悪を宿した視線があった。
以前なら、その目だけで胸が痛んで、自分の何が悪かったのかと必死に探しただろう。どこが足りない、どこを直せばいい――いつだって原因は自分だと。
けれど、何度も傷ついて、何度も絶望して、心はとうに干上がっている。
千枝は淡々と、羽でも払うような調子で言った。
「西園寺社長。ご用件は」
西園寺社長。
よそよそしく、距離を突きつける呼び方に、直哉の眉がわずかに寄る。
昔の千枝は、怯えた子犬みたいに後ろをついて回り、恐る恐る「兄貴」と呼んだ。
そのたびに直哉は虫唾が走った。こいつが自分を兄貴と呼ぶ資格などない。兄貴と呼べるのは紗良だけ。紗良こそが本当の妹だ。
なのに今、千枝の口から出た「西園寺社長」が、妙に引っかかる。
直哉は胸の奥の違和感を押し殺し、氷のような顔で問いかけた。
「家を出た日、お前を迎えに来たのは黒瀬家の人間だったのか」
千枝は思わず、ふっと笑う。
――結局、それか。
西園寺グループの現総裁。黒瀬家と繋がりたくて、手段を選ばないのも当然だ。
直哉が最初に口にしたのは、縁を切った理由でも、外でどう暮らしているかでもない。黒瀬家の情報。
怜司がさっき急に「戻れば置いてやる」などと言い出したのも、同じだろう。
自分に残っている価値があるとすれば、黒瀬家へ繋がる可能性――それだけ。
千枝は静かに直哉を見返す。綺麗な瞳の奥に、凍てついた冷えが凝った。
「あなたには関係ない」
言い捨てて歩き出す。もう一言だって、この目障りな連中と交わしたくなかった。
去っていく背中を見送りながら、紗良は下唇を噛み、今にも泣き出しそうな目を向ける。
「兄貴、怜司兄……さっきのお姉ちゃん、あんなに冷たくて……やっぱりこの前のこと、まだ恨んでるのかな」
怜司はたちまち胸を痛めたように顔を歪める。
「馬鹿だな、紗良。そんなにへりくだるな。前の件だって、たとえお前が千枝を陥れたとしても、千枝は肉が削れたわけでもないだろ。姉なんだから少しくらい我慢しろって話だ。なのに器が小さくて、縁切りだの何だの騒ぎやがって。悪いのはあいつだ」
直哉は紗良の頭を撫でた。氷の表情が、紗良に向ける時だけ柔らかくほどける。
「もう泣くな、紗良。昨日、最新モデルのスポーツカーを買った。今日の復戦で1位を取る祝いにやる」
紗良はぱっと笑顔に変わる。
「ありがとう、兄貴。怜司兄も。私、絶対に1位取るね!」
怜司は誇らしげに胸を張った。
「うちの紗良はダンスの才能があるんだ。復戦の1位くらい簡単だろ。俺に言わせりゃ、『一緒に踊ろう!』の決勝だって、優勝は紗良のもんだ」
三人がそんな話をしていると、『一緒に踊ろう!』番組の審査員が4人、こちらへ歩いてきた。
「こんにちは!」
紗良は上品に微笑む。
「審査員の先生方、こんにちは」
審査員たちは西園寺家の顔色をうかがい、こぞって持ち上げ始めた。
「予選の時点で分かっていましたよ、西園寺さんは本当に才能がある。復戦もきっと1位でしょう!」
「ええ、柔軟性も素晴らしいし、振り付けの発想もいい。完成度が高いです」
紗良は内心で優越感を膨らませつつ、表では謙虚に首を振る。
「そんな……先生方、過分なお言葉です」
その時、裏方のスタッフが駆けてきた。
「審査員の皆さん! 桐生先生が会場に到着されました。審査員控室に入られています!」
「桐生先生?」
審査員の一人が目を丸くする。
「桐生先生は決勝から参加だと伺っていましたが。今日は復戦ですよ、どうして前倒しで……」
スタッフは息を整えながら答えた。
「出場者リストをご覧になって、いい子がいると。いてもたってもいられなくて、早めに来たそうです」
「いい子、ね……」
4人は顔を見合わせ、揃って控室へ向かう。
「とにかく、まずはご挨拶しないと」
桐生雅代は舞踊界で権威ある存在で、国風の古典舞踊を牽引する第一人者。舞い手たちから深く敬われている。
そしてこの『一緒に踊ろう!』の最終優勝者は、桐生雅代の最後の弟子として迎えられ、直々に古典舞踊を教わることになる。
紗良がこの大会に出る理由は、優勝だけじゃない。
桐生雅代の最後の弟子になること――それが本命だった。
直哉は少し考え、口にする。
「その『いい子』というのは……紗良のことじゃないか」
怜司は興奮を隠せず、声を弾ませた。
「間違いない! 紗良は予選1位だぞ。他に誰がいるってんだ。桐生先生は紗良を見に来たに決まってる!」
その言葉に、紗良の瞳の奥で抑えきれない喜びがきらりと揺れた。
もし桐生雅代が自分を目当てに来たのなら――
最後の弟子になる日が、また一歩近づく。
