第001章 凄まじい苦痛の中で絶命した
冬木涼子は、生きたまま痛みに殺された。
あの日――W市の雪は空を裂くように吠え、世界そのものを白で呑み込もうとしていた。
彼女は手首の腱を断たれ、氷点下の雪原へ放り捨てられた。
鋭い刃が胸の大動脈を貫き、血が噴き上がる。
命を懸けて守ってきた妹が、すぐ傍で狂ったように笑った。
「冬木涼子、これがあんたの運命だよ。生きてる価値なんて、私のための動く血液バンクでしかないの」
「もう私の病は完治した。あんたの血なんて、残しておく意味もない。ゆっくり流し切って死ねばいい」
「……あ、そうだ。言い忘れてたことがあるの」
「あなたの夫、御堂柊吾。あんたが監禁されたって知って、手元の人間を全員、探しに出したんだって」
「自分ひとりで仇と向き合うことになってさ。半時間前に――相討ちで死んだよ」
「冬木涼子。もう誰も助けに来ない。この世界で唯一あんたを庇ってくれた人は死んだ。ここで、ゆっくり死んで」
冬木雨音は高らかに笑い、去っていった。
冬木涼子の心臓が、ぐらりと震えた。痛みで息が詰まり、肺がうまく膨らまない。
けれど、もう動けない。
激痛の波の中で呼吸は細くなり、意識は白く滲んでいく。
残ったのは、黒と白がくっきりした大きな瞳だけ。世界を壊し尽くすほどの憎しみを湛え、蒼茫たる雪景色を睨みつける――
御堂柊吾。いま、あなたのところへ行く。
……
冬木家別荘。
リビング。
ずらりと並ぶ視線が、冬木涼子を射抜いていた。
「冬木家が十七年も育ててやったんだぞ。うちが拾わなきゃ、お前なんてとっくに外で野垂れ死にだ。雨音の代わりに御堂柊吾へ嫁ぐだけでいい。それが福だってのに、まだ嫌だと言うのか!」
冬木紳助は怒りで顔を赤くし、ローテーブルのグラスを掴むと冬木涼子へ投げつけた。
冬木涼子は身をひねり、紙一重で避ける。
ガシャン――床に叩きつけられたグラスが、乾いた音を立てて砕け散った。その刺激が、ぼんやりした頭を無理やり現実へ引き戻す。
彼女は俯き、自分の身体を見た。
傷ひとつない。血の匂いもしない。
磨かれた床に映るのは、若く、まだ幼さの残る自分の顔――。
……生きてる?
それどころか。
五年前。冬木家に追い詰められ、御堂柊吾との結婚を押しつけられた、あの時だ。
冬木家の長男、冬木颯真が失望したように言い放つ。
「涼子。俺たちはお前に衣食住を与えてきた。十七年だ。たった一度の頼みも聞けないのか?」
「恩を返すってことを覚えろ。こっちが手を下す前にな」
末っ子の冬木陽斗も、横で汚い言葉を吐き散らしている。
冬木家の奥様、冬木美蘭が歩み寄り、慈愛の仮面を貼りつけた。
「涼子。ほら、お父さんもお兄ちゃんも、あなたのせいでこんなに怒ってる。私たちは家族よ? あなたを害するはずがないでしょう」
「御堂家に嫁げば、幸せになれるの。こんなお話、他の子なら土下座してでも欲しがるわ」
冬木涼子は、並ぶ顔をひとつずつ見た。
偽善。嫌悪。吐き気がするほどの薄っぺらさ。
口元だけで冷たく笑い、冬木美蘭へ言った。
「そんなに福が欲しい子がいるなら、雨音にあげればいいじゃない」
「あなた、雨音と比べる気?」
冬木美蘭の表情が一瞬で崩れ、顔色がどす黒く変わる。
冬木雨音は実の娘。冬木家の最も尊いお嬢様。甘やかされ、守られ、何不自由なく育った存在だ。
冬木涼子のような――拾われた子が並び立つなど、許せるはずがない。
当の冬木雨音は得意げに笑いながらも、殊勝な声を作って口を挟んだ。
「涼子、そんな言い方しちゃだめ。お母さまは、あなたのためを思って――」
「外では、御堂柊吾は残忍で、顔も醜くて、足も悪くて、長くないって噂だけど……御堂家は海外の貴族で、国際財閥も持ってるのよ」
「嫁いだら一生困らない。身分だって、どれだけ尊くなるか。みんな欲しくても手に入らないの」
そう言って、雨音は甘ったるく笑った。
その笑い声が――前世の雪の中のそれと、ぴたりと重なる。
冬木涼子の拳が、ぎり、と音を立てた。
血が抜けていく感覚。凍える寒さ。息ができない絶望。生きたまま痛みに削られていく地獄。
すべてが、もう一度、皮膚の内側から押し寄せてくる。
一瞬、喉元を捻り折ってやりたい衝動に駆られた。
だが、堪えた。
こんな死に方では、安すぎる。
前世――冬木雨音のための動く血液バンクにするため、冬木紳助と冬木美蘭は彼女を実の親の元から奪い、十七年もの間、肉親と引き裂いた。
価値を吸い尽くした途端、殺すことに躊躇はなかった。
冬木颯真が薬を盛り、冬木陽斗が眠った彼女の手首の腱を断つ。
雪の中へ捨て、冬木雨音が刃で動脈を貫き、最後の一滴まで搾り取った。
この恨みは――ゆっくり、確実に返していく。
冬木涼子は冷笑し、握りしめた拳をほどくと、そこにいる全員を見回した。
「いいわ。御堂柊吾に嫁いであげる。その代わり、条件がある」
「はあ? お前ごときが条件だと?」冬木陽斗が噛みつくように吐き捨てる。
冬木紳助と冬木美蘭も、喜びかけた顔を引きつらせた。
冬木紳助が怒気を押し殺して訊く。
「……条件とは何だ」
冬木涼子は淡々と言った。
「私が雨音の代わりに御堂柊吾へ嫁ぐ。それで、冬木家に育てられた恩は返し終わり」
「今日をもって、私は冬木家と絶縁する。今後いっさい、関係はない」
「……何だと?」
冬木家の面々が、一斉に固まった。
もっと金を要求してくると思っていたのだろう。拍子抜けしたような顔。
冬木紳助と冬木美蘭が目を合わせる。
結局、冬木涼子を養ったのは雨音への輸血のため。雨音の身体はもうほとんど持ち直している。涼子を手元に置く価値は薄い。
それに、御堂柊吾の荒い気性なら――冬木涼子は初夜すら越えられないかもしれない。
絶縁? 望むところだ。
冬木紳助は即座に頷いた。
冬木涼子は言葉を重ねる。
「口約束じゃ意味がない。書面にして」
冬木颯真がすぐに秘書へ指示し、法的効力のある絶縁合意書が運ばれてきた。
冬木涼子と冬木紳助は、それぞれ署名する。
冬木涼子は自分の控えを折り畳んでポケットへ入れ、身分証とスマホだけを手に取った。他には何も持たず、振り返りもせずにリビングを出る。
ちょうどその時、迎えの一行が到着した。
御堂家の迎えは、車列だけで圧倒的だった。
先頭の車は世界限定モデル。ボディは磨き上げられ、塵ひとつない。
ボンネットには高価で艶やかな薔薇が幾重にも飾られ、その後ろに同型の車が整然と連なる。数十台――視線を伸ばしても、終わりが見えない。
冬木雨音は涼子を笑いものにするつもりで出てきたのに、この豪奢な光景を見た瞬間、嫉妬で目を赤くした。
悔しさを隠しきれず、涼子を睨む。
「御堂柊吾、ずいぶん金かけるじゃない。でも聞いたわよ。あいつ、足が動かないまま何年もで、性格も歪んでて……御堂家に送られた女は、誰ひとり初夜を越えられないって」
「嫁いだら、せいぜい――」
パァン!
乾いた音が響いた。
冬木涼子の平手が、容赦なく冬木雨音の頬を打ち抜いたのだ。
雨音はよろめき、倒れそうになる。
生まれてこの方、誰も彼女に手を上げたことなどない。
それを――見下してきた冬木涼子に、殴られた?
冬木雨音は頬を押さえ、甲高く叫ぶと、涼子へ飛びかかった。
「私を殴った!? クズ! 殺してやる!」
