第002章 初対面でいきなり彼にキスする
冬木涼子は当然、怯まなかった。そこに立ったまま、冷えた目で冬木雨音を見下ろす。
縁を切ったあの瞬間から、もう――好き勝手に殴られたり罵られたりするのを、許すつもりはない。
向こうから乗り込んでくるというなら、顔が元に戻らないくらい叩きのめしてやる。
……もっとも、涼子が手を出す前に止めが入った。
雨音が飛びかかる、その一瞬前。迎えの列にいた屈強な護衛が二人、同時に涼子の前へ出て壁になる。涼子を背中に庇った。
それが余計に癇に障ったのか、雨音は口を開き、また罵声を浴びせようとする。
涼子は一歩も引かず、冷え切った視線で射抜いた。
「冬木雨音。糞でも食ったみたいな口、今すぐ閉じなさい。もう一度だけ――私の夫を侮辱したら、その口、引き裂くわよ」
言い捨てると、涼子は踵を返し、ウエディングカーへ向かった。
迎えに来た御堂家の執事田中は、その光景を目にして胸の奥がじんと熱くなる。尊敬にも似た感情が、自然と湧き上がった。目まできらりと光る。
若様の噂を聞けば、皆、怖がるか、顔をしかめるか、そのどちらかだ。
こんなふうに堂々と、若様を守る女性は初めてだった。
田中は恭しく車のドアを開け、手で促す。
「若奥様、どうぞお乗りくださいませ」
……
その頃――冬木涼子が御堂柊吾を庇った一件は、すでに本人の耳にも入っていた。
海棠湾。二階の書斎。
御堂澪は部下から送られてきた短い動画を、何度も何度も見返している。興奮を隠せない声で柊吾に言った。
「若様、見てくださいよ! 若奥様が若様を守るところ、マジで格好良すぎますって!」
普段は冷淡な御堂湊でさえ、ちらりと画面に目をやった。……確かに、悪くない。
だが、御堂柊吾は二人に構わず、執務椅子に座ったまま資料をめくっていた。
冬木涼子の個人資料だ。
――冬木涼子。冬木家の養女。十八歳。性格は従順で孝行、家族に逆らったことはなく、冬木家の人間には常に言われるがまま。
そんな女が、会ったこともない「足の不自由な夫」のために、姉妹と何度も衝突する?
……目的がある、と見るのが自然だ。
柊吾は資料を閉じ、窓の外へ視線を移した。迎えの車列が海棠湾の門をくぐっていく。
唇の端に、薄く冷たい弧が浮かぶ……。
……
冬木涼子は一階のリビングのソファに座り、静かに待っていた。
もうすぐ御堂柊吾に会える。
そう思った途端、胸の奥が勝手に跳ね上がる。嬉しいのに、怖い。期待と緊張が絡み合って、息が浅くなる。
田中が柔らかく声をかけた。
「若奥様、ご心配なさらず。若様はお優しい方でございます」
「……はい。分かっています」
柊吾の名を口にしただけで、涼子は思わず微笑んでしまう。
前世の自分は、柊吾を残忍で異常な男だと信じ込んでいた。冬木家の人間に言い含められ、彼は悪い人間だと刷り込まれていたのだ。だから、最初から彼に情など持てなかった。
しかも彼は寡黙で冷たい。二人はほとんど会話もしなかった。
それでも――冬木家に虐げられるたび、彼は必ず前に出て、涼子を庇ってくれた。
なのに自分は、彼の優しさを見ようともしなかった。冬木家という「家族」にしがみつき、くだらない情に縛られて、何度も彼を傷つけた。
いちばん酷いのは、彼が涼子を海外へ行かせようとしたときだ。涼子は拒み、言い争いになり、「もう私と家族のことに口を出さないで」と突き放した。
死ぬ間際になって、ようやく知った。彼の病は限界まで進んでいたのだ。両親の仇を討つため、命を削って動こうとしていた。
一度発てば、戻れない可能性が高かった。だからこそ、出発前に涼子の将来を整えておこうとしたのだ。
涼子はそれを疑い、家族との仲を裂こうとしているのだと決めつけ、冬木家へ戻った。
――それが、最後だった。
あれほど裏切ったのに。彼がいちばん大事な局面にいたのに。
それでも、涼子が冬木家に監禁されたと知ると、彼は身近な人間を総動員して助けに来てくれた……。
思い出が胸を締めつけ、呼吸がうまくできない。目の奥が熱くなり、赤く滲む。
そのとき。
リビングに、エレベーターの扉が開く音が響いた。続いて、車輪が床を滑る音――すう、と近づいてくる。
「若様!」
使用人たちが一斉に声を上げる。
涼子は慌てて思考を引き戻し、音の方を見た。
御堂柊吾が、エレベーターから出てきた。
車椅子に座り、膝には薄いブランケット。下半身は見えない。
上は淡いカフェ色のニット。引き締まった長い体躯に沿い、無駄のない線を際立たせている。
整った顔立ちは、血の気の薄い白さ――病の白だ。
それでも、生まれつきの気品と圧は隠しようがない。近づくだけで空気が変わる。
涼子は、その深く冷えた瞳と目が合った瞬間――前世の記憶が一気に溢れ出した。
鼻の奥がつんと痛み、堪えきれない涙が頬を伝う。止めようとしても止まらない。
使用人たちは凍りついた。
若奥様……若様に怯えて泣いているのか?
田中は眉をひそめる。――さっきまで命がけで若様を庇っていた女性と、同一人物なのか。
御堂湊は皮肉げに御堂澪を一瞥した。――これが「格好良すぎる女」?
御堂澪も言葉を失う。……見誤った。やっぱり演技だったのか。
御堂柊吾は、涙に濡れた涼子を見つめたまま、表情を動かさない。冷淡で、底の見えない眼差し。
短い沈黙ののち、低い声が落ちた。
「冬木さんを送っていけ」
そう言って、去ろうとする。
だが、向きを変えるより早く――涼子が彼の前へ飛び出し、両腕で彼の脚にしがみついた。首を振る。
「行かない」
柊吾は、脚がかすかに震えるのを感じ、眉を寄せた。
「俺は御堂柊吾だ。女を無理やり縛りつける趣味はない。離せ」
「……嫌」
甘いのに、妙に強い声。
涼子は真っ直ぐ彼を見上げた。涙を溜めた瞳の奥に、揺るがない光が宿っている。
――今世は、絶対に離れない。
柊吾には理解できなかった。怖がっていたはずの女が、なぜこんな目をする。
言葉を継ごうとした、その瞬間。
涼子は立ち上がり、両手を車椅子の肘掛けに置いて身を乗り出す。顎を上げ――そのまま、柊吾の唇に口づけた。
柊吾の思考が止まった。
柔らかく、甘い香りのする唇。触れた感触が、胸の奥を強く揺さぶる。
……この女、俺にキスした?
初対面で?
周囲の使用人たちも、息を呑んだまま固まっている。
御堂澪は目を見開き、興奮して御堂湊の腕を叩いた。
「え、ちょ、今……若様に強引にキスしてません!?」
御堂湊は氷みたいに冷たい声で言う。
「死にたいんだろ」
若様の初めてだ。この女、命が惜しくないらしい。
だが、口づけは長く続かなかった。
前世、柊吾は涼子を無理強いしたことがない。肉体関係もなかった。
だから、やり直した今世でも、涼子には経験がない。
唇を離し、涼子は彼の首に腕を回したまま、囁くように言った。
「御堂柊吾……会いたかった」
御堂柊吾は言葉を失う。
初対面で「会いたかった」?
この女は頭がおかしいか、何か企んでいるか――どちらかだ。
柊吾は手を上げ、掌で涼子の額を押し、距離を作る。
「どけ」
周囲が目を丸くする。……それだけ?
強引にキスされたのに、叩きのめさないのか。
涼子は眩しいほどに笑った。
「じゃあ、私がここにいていいって言って」
柊吾は数秒、黙って涼子を見た。
その数秒の間、空気が凍りつく。涼子も息を止め、ただ彼の返事を待った。
やがて柊吾は視線を外し、淡々と言う。
「いたいならいろ。……ただし、近づくな」
それだけ言って、二階へ向かおうとする。
御堂湊と御堂澪が後に続いた。
御堂澪はエレベーターに乗り込んでからも我慢できず、声を潜める。
「若様、あの女……ちょっとおかしくないですか? 何をする気か分からないのに、そばに置くんですか」
柊吾は冷たく短く答えた。
「何をするつもりか、見てやる」
御堂澪は内心で舌打ちする。……若様、暇すぎるだろ。
……
冬木涼子は客室に通された。御堂柊吾の主寝室の隣の部屋だ。
シャワーを浴び、ベッドに横たわる。見慣れた内装が目に入った。
前世も、涼子はここに住んでいた。
違うのは――前世は拒絶でいっぱいだったこと。今世は、胸の奥が不思議なくらい落ち着いていること。
冬木家の連中は、あとでゆっくり片づければいい。
今いちばん大事なのは、柊吾の脚だ。
前世の涼子は彼を気にかけなかった。そのせいで毒は深く回り、やがて全身の臓器へ広がって、どれだけ医術を尽くしても救えなくなった。
でも今世は違う。
まだ間に合う。
――必ず、立たせてみせる。
そう思いながら、まどろみかけたとき。
廊下の向こうで、ばたばたと慌ただしい足音がした。
御堂澪の焦った声が混じる。
「若様、また発作ですか!? 今月これで七回目ですよ! なんでどんどん増えてるんですか……若様、大丈夫なんですか!?」
