第005章 また妻にからかわれた
こうして御堂柊吾は、またしても妻に軽くたぶらかされた。
あまりにも手際がよくて、拒む暇すらない。
反射的に手を上げ、そっと自分の唇に触れる。さっきの、柔らかくて甘い――蜻蛉が水面をつつくみたいな、あの一瞬の口づけを思い出していた。
江崎悠白が外から入ってきたとき、目にしたのはまさにその光景だった。
「どうした? 唇、具合悪いのか?」
不思議そうに江崎悠白が訊く。
御堂柊吾はようやく我に返り、手を下ろす。
「いや、なんでもない」
彼は車椅子を操り、寝室スペースを出た。
江崎悠白も深くは考えず、医療器具を取り出してソファに腰を下ろし、御堂柊吾の身体を診始める。
昨夜、御堂柊吾はよく眠れた。だが江崎悠白は一睡もできず、あの戦慄する光景ばかりが頭から離れなかった。
そして検査を終えた瞬間、江崎悠白はまたしても強烈な衝撃を受ける。
信じられない、とでも言うように御堂柊吾を見た。
「……昨夜の睡眠、こんなに質がいいのか? 8時間きっちり眠ってる。深い睡眠も7時間以上だ。毒にやられてから、いちばん楽で、いちばん良い眠りじゃないか」
この数年、江崎悠白はあらゆる手を尽くして御堂柊吾を眠らせようとしてきた。だが柊吾は眠れない。睡眠薬に頼っても、せいぜい2、3時間が限界だった。
それが――あの女の膝の上で、こんなに眠れるなんて。
冬木涼子はいったい、何をした?
御堂湊と御堂澪も興奮を抑えきれず、今にも泣き出しそうな顔をしていた。若様が、ようやくまともに眠れたのだ。
御堂柊吾は昨夜のことを思い返す。
「……少しマッサージをされた。前後しても5分くらいだ。それから温かい水を一杯飲まされて……それで、眠った」
「膝の上で」という言葉だけは、どうしても口にできなかった。
江崎悠白は直感で、マッサージと温かい水だけでは説明がつかないと悟る。
「匂いじゃないか? 彼女の匂いで安心したとか」
御堂柊吾は小さくうなずいた。
「確かに、清い香りがする。甘ったるくもないし、くどくもない。茶の香り……いや、薬草みたいな香りにも近い」
「匂いが何だろうと関係ない。眠れるなら、まず彼女をここに置こう。俺が匂いを調べる。市販で手に入らないなら調香師を呼んで再現させる」
江崎悠白は昂りきっていた。
眠れる方法があるなら、どれほど難しくても試すしかない。
御堂柊吾は薄く笑う。どこか乾いた、淡い笑み。
「いい。無駄にするな。俺の寿命は、長くてもあと三年だ。そんなに眠ってどうする」
やるべきことが山ほどある。睡眠に時間を食われている場合じゃない。
江崎悠白は露骨に不機嫌になった。
「柊吾、そんな投げやりなこと言うな。お前の毒は俺じゃどうにもできない。でも天才医師・葵なら絶対にできる。外科の神の手って呼ばれてる人だ。複数の国の医術に通じてて、特に難病が得意だ」
息をついて、言い切る。
「もう帰一盟には連絡した。見つかるのも、せいぜい数か月だ。……諦めるな。いいな?」
天才医師・葵は、国際医学界でもっとも謎に包まれた存在だと言われている。三途の川に片足を突っ込んだ人間ですら引き戻す――そんな噂まである。
御堂柊吾の状態なら、なおさら守備範囲のはずだ。
ただ、葵はここ二年ほど姿を見せていない。誰も居場所を知らなかった。
江崎悠白は手詰まりになり、帰一盟に頼るしかなかった。
帰一盟は世界でも指折りの秘密組織で、盟主に至っては正体不明。分かっているのは、同盟内に各分野のトップクラスが集っているということだけだ。
国際ランキング1位のハッカー・ゼロも、帰一盟の出身だ。
江崎悠白は帰一盟に連絡し、ゼロを動かして天才医師・葵を探させていた。
……
一方、冬木涼子は自分の部屋へ戻った。
まず親しい友人にメッセージを送る。
「飛鳥さん、いますか?」
次の瞬間、葉山飛鳥からビデオ通話がかかってきた。
冬木涼子は通話を受ける。
画面の向こうで葉山飛鳥は長椅子に寝そべり、深紅の着物を思わせる艶やかなドレスをまとっていた。雪のように白い胸元が惜しげもなく空気にさらされ、怠惰な表情と、男を絡め取るような艶めいた視線が合わさって、見ただけで痺れそうな色気を放っている。
そして葉山飛鳥こそ、帰一盟の副盟主だった。
「あら、涼子ちゃん。どうしたの? お姉ちゃんに連絡してくるなんて」
飛鳥はそう言って、わざとらしくウィンクを投げる。
冬木涼子が口を開く前に、飛鳥は背後の様子が違うことに気づいた。冬木家の地下室ではない。
「……あれ? 冬木家、出たの?」
冬木涼子はうなずく。
「うん。もう冬木家とは縁を切った」
淡々とした一言だったが、葉山飛鳥は大きく驚き、ソファから勢いよく起き上がった。その拍子に、山のような胸がぶるん、と揺れる。
「それでいいのよ! お姉ちゃん、ずっと言ってたじゃない。冬木家の連中、あなたに本気で向き合ってない。十七年育てた恩があるって言っても、あなたが持ってきた大きな案件だけで、あいつら一年で上流に入り込んだ。今だってあんなにうまく回ってる。――もう十分返したわ」
冬木涼子は視線を落とした。
前の人生のことがよぎる。飛鳥は何度も同じように忠告してくれた。それでも涼子は冬木家の「家族」を捨てきれず、必死に支え続けた。結果、飛鳥を怒らせ、長い間口をきいてもらえなかった。死ぬ間際まで、飛鳥さんの許しを得られなかった。
黙り込む涼子を見て、飛鳥は心配そうに声を落とす。
「……どうしたの? またあの家の連中にいじめられた?」
冬木涼子は首を振った。
「ううん。もう縁を切ったから、これからは私をいじめられない。……それどころか、私があの人たちに復讐する」
「復讐?」
葉山飛鳥は意味が分からず、目を瞬かせる。
冬木涼子は前世の話をする気はなく、すぐに話題を変えた。
「飛鳥さん。お願いがあって連絡したの。手を貸してほしい」
葉山飛鳥はわざと怒ったふりをする。
「涼子ちゃん、それは違うでしょ。お姉ちゃんに遠慮なんていらない。用件、言いなさい」
豪快な口調だった。
冬木涼子は言う。
「薬材が必要なの。幻月草。私にとってすごく大事。いくらかかってもいいから、とにかく急いで手に入れたい」
それさえあれば、御堂柊吾の体内の毒を抜き、もう一度立たせることができるのだから。
